History Books

歴史関係の本を紹介するブログ

『軍人皇帝のローマ 変貌する元老院と帝国の衰亡』

『軍人皇帝のローマ 変貌する元老院と帝国の衰亡』 講談社選書メチエ 井上文則

 

■本書の概要

 軍人皇帝というのは、3世紀ごろのローマ帝国を導いた、軍人出身の皇帝たちのことである。当時のローマは疫病や外敵の侵入によって、「3世紀の危機」とも呼ばれる、帝国始まって以来の未曾有の危機に直面していた。初代皇帝のアウグストゥス以来、ローマ皇帝元老院議員という貴族層のなかから輩出されてきた。2世紀の五賢帝の時代は、『ローマ帝国衰亡史』を著したギボンによって「人類の最も幸福な時代」とまで評される繁栄を享受していたが、この五賢帝も、元老院議員出の皇帝たちだった。これに対して、3世紀は相次ぐ外敵の攻撃や内乱のなかで、上記の通り軍人出身の皇帝が相次ぐようになるのだが、本書はこの皇帝の出身階層の変化、つまり支配階層の変化の重要性に着目し、その背景と意義を論じている。

 3世紀~8世紀ごろの西洋と中国は、ユーラシアの東西で共時制を持つ歴史の展開を経験したということはよく指摘される。地球規模の寒冷化が北方民族の南下を招き、西洋ではローマ帝国、中国では後漢という古代帝国が滅亡し、その北方民族、つまり西洋ではフランク人、中国では鮮卑にルーツを持つ者が、それぞれフランク王国や隋・唐といった新たな帝国を築いていったのである。

 このように類似した歴史をたどった西洋と中国だが、大きく異なる点もある。それは、支配階層の変遷である。中国においては、後漢の滅亡後に三国時代西晋の短期の統一を経て南北朝時代に至っても、(特に南朝において顕著だが)文人貴族が社会の支配階層であり続けた。武人が政権を奪取しても、結局彼らは文人貴族化していき、政治的な激変のなかでも彼らが担う中国文明は断絶することなく受け継がれていったのである。対照的に、西洋においては、ローマ帝国の滅亡をもって、文人貴族であるところの元老院議員が担った地中海文明は消滅し、中世ヨーロッパ文明との間には断絶が生じたのである。

筆者は、洋の東西でこのような違いな何故生じたのか、という問題意識を出発点として、3世紀のローマ帝国で生じた支配階層の変化を論ずる。3世紀に外敵の侵入などで帝国が危機を迎えるなかで、従来の支配階層であった元老院議員は適切に対処することができず、代わって軍人皇帝と言われる下層出身の軍人あがりの皇帝たちが台頭し、この3世紀の危機を収拾していった。そのなかで、従来はササン朝に敗れ捕虜になったことで低い評価をされるウァレリアヌス帝を、危機に対処するために有効な施策をうち、危機の克服に道筋をつけたとして高く評価している。

タイトルは『軍人皇帝のローマ』だが、筆者は先述の通り東洋との比較や、後の歴史に与えた影響も含めて大きな視野でローマ帝国の3世紀を論じており、非常に面白い内容となっている。

 

五賢帝から軍人皇帝時代へ

 BC27年のアウグストゥス即位にはじまるローマ帝国は、2世紀にはその絶頂期を迎えた。ローマ帝国五賢帝と呼ばれる皇帝たちのもと、統治が安定し、2人目のトラヤヌス帝のもとではダキアを征服して最大版図を現出したのである。ローマ帝国の文明は都市に基盤を置くものであり、帝国の繁栄は都市の繁栄を意味した。ローマをはじめとした帝国内の各都市では上下水道や舗装路、広場や闘技場、神殿などといった公共施設が整備され、洗練された都市文明が栄えていた。こうした各都市は、自治に任されており、富裕者から選出された都市参事会員によって運営されていた。こうした都市の富裕層は、自発的な贈与として、先述したような公共施設や剣闘士競技などのスポンサーとなって、都市文明を支えていた。彼らの贈与行為は、エヴェルジェティズムと呼ばれ、それによって支持を集め選挙を有利に戦うことなども動機のひとつだったが、何よりも死後に残る名声を得て後世に記憶されることが彼らの望みだった。

 一方、ローマの国政を担ったのは元老院議員という貴族層だったが、彼らもまた都市の富裕層であった。彼らは古い歴史を持つ名門家系を誇る者も多かったが、高い乳幼児死亡率と、富裕層の低い出生率によりしばしば断絶したため元老院議員には補充が必要であった。そうした補充は、元老院階級に次ぐ騎士階級と呼ばれる都市富裕層から為されたのであり、つまり国政を担う元老院議員とは都市富裕層の頂点に立つ存在であり、その他の各都市の指導層として活躍する都市参事会員などの都市富裕層と、同質の社会層を成していたと言える。ローマ帝国では政治・文化両面においてこうした都市エリートによって導かれていたのである。

 

しかし、最後の五賢帝マルクス・アウレリウス帝の治世である160年代には、すでに帝国の繁栄に陰りがみられていた。東方のパルティアとの間で生じた戦争には勝利したものの、帰還兵から疫病(天然痘といわれる)がひろがり、また162年からはマルコマンニ人をはじめとしたゲルマン系部族の侵入がはじまった。マルクス・アウレリウス帝の息子、コンモドゥス帝暗殺後には帝位をめぐる内乱が生じ、勝利したセプティミウス・セウェルスによって新たにセウェルス朝がひらかれたが、235年にセウェルス朝最後の皇帝アレクサンデル・セウェルスが暗殺され断絶した。

このようにローマ帝国に暗雲が漂い始めるなかでのアレクサンデル帝暗殺後に、軍団が担いで皇帝に即位したマクシミヌスが最初の軍人皇帝である。彼は元老院議員ではなく、辺境の属州出身で軍務キャリアを積んできた人物だった。騎士階級ではあったようだが、それでも、辺境出身の軍人あがりというのは、元老院議員から見れば得体のしれぬ出自でしかなく、そんな人物が帝位についたことは衝撃的だった。このマクシミヌス帝以降、帝国は各地の軍団が自軍の指揮官を皇帝に担いで僭称し、内乱と短命な皇帝が続く混乱期を迎える。これがいわゆる軍人皇帝時代である。

 

■軍人皇帝時代の混乱

 出自の低いマクシミヌスの即位は元老院には快く思われなかった。マクシミヌス側も出自の低さに負い目もあってか、慣習に逆らい元老院のあるローマには入らず、辺境での対外戦争を継続した。そんななか、238年に元老院議員であるゴルディアヌス1世が息子のゴルディアヌス2世とともに北アフリカで帝位を名乗ると、マクシミヌスをよく思っていなかった元老院もそれを承認した。しかし、ゴルディアヌス親子はマクシミヌス側についたヌミディア総督に攻められ1月足らずで滅亡する。元老院が叛いたことに怒ったマクシミヌスはイタリアに進撃していった。元老院側は自らのなかからバルビヌスとプピエヌスを皇帝に擁立してマクシミヌスに対抗し、またゴルディアヌス2世の息子、ゴルディアヌス3世も副帝として承認された。元老院はイタリアの諸都市を掌握して防備を固めていたため、マクシミヌスは苦戦し、戦役が長引くなかで、配下の軍団が不満を高めて暴動を起こし、共同帝としていた息子ともども殺害された。こうして元老院が勝利したものの、バルビヌスとプピエヌスも近衛兵の暴動によって間もなく殺害されてしまい、結局13歳のゴルディアヌス3世のみがこの238年の内乱を生き残った。

 当時、東方では224年にパルティアに代わったササン朝が西方に向けて勢力を伸ばしていた。ゴルディアヌス3世は、対ササン朝防衛のために親征を行うが、243年に大敗し、自身も負傷し、それがもとで没した。補佐役ので騎士身分出身のフィリップスが後を引き継いで皇帝に即位し、敗軍をまとめ撤退したが、ササン朝に対しては、莫大な賠償金を払い、アルメニアの宗主権を放棄するなど不利な条件で講和せざるを得なかった。フィリップスはローマに帰還したが、248年に今度はゴート人がドナウ川を越えてローマ領に侵入してバルカンを荒らした。これに対処するために、元老院議員のデキウスに軍を率いさせて派遣したが、その軍がデキウスを皇帝に担いでしまい、戦いに敗れたフィリップスは殺害された。この時期、ゴート人の侵入は断続的に継続しており、250年にも再度クニウァという王に率いられてバルカンに侵攻した。デキウスはこれと戦ったが、251年に大敗して息子とともに戦死した。

 代わって帝位についたのは下モエシア総督として対ゴート戦をデキウスとともに戦っていた元老院議員のトレボニアヌス・ガルスだった。翌年252年にササン朝のシャープール1世が侵攻を再開し、ローマ軍を破ってシリアに侵入するとアンティオキアなど大都市が次々に陥落した。ガルスはこれに全く対処しなかったため、現地ではエメサの神官、ウラニウス・アントニヌスが皇帝を称して自営軍を組織してササン朝を撃退した。また、隊商都パルミラの支配者オダエナトゥスが、これまた自衛軍を率いて退却するシャープール1世を追撃した。翌253年、ドナウ川流域でゴート人を撃退したことで配下の支持を得たアエミリアヌスという総督が帝位を称して反乱を起こした。ガルスはラエティア(現代のスイス東部からオーストリア西部)方面で軍を率いるウァレリアヌスを救援に呼び寄せようとしたが間に合わず、アエミリアヌスに敗れ殺害された。しかしそのアエミリアヌスも、ガルスに呼ばれ進撃してきたウァレリアヌスに倒されたのだった。

 

■混乱の要因

 このように238年~253年のわずか15年の間に、数多くの皇帝が立っては対外戦争や内乱で命を落としていった。皇帝たちは直接・間接的に外敵の攻撃によって倒されている。直接というのは、ゴルディアヌス3世、デキウスのように実際に戦死しているものだが、間接というのは、アエミリアヌスがガルスを倒したように、対外戦で勝利した指揮官が軍に担がれて帝位を称して正統な皇帝を倒してしまうことを言う。

 このような事態を招いた大きな要因は2つある。1つは元老院議員をはじめとするローマ指導層が軍事的に無能だったことと、2つめは中央軍が弱体だったことである。

 1つめの元老院議員の軍事的無能の要因は以下のようなものだ。元老院議員は公職序列(クラスス・ホノルム)と呼ばれる、パターン化された公職キャリアを経て、徐々に昇進していった。そのなかには軍務も含まれており、元老院議員は軍事職と行政職の双方を経験していくことが想定されていた。また元老院議員が就任する属州総督は、属州に軍団が駐屯する場合にはその指揮官も兼ねており、軍権と行政権は分離されていなかったため、そうしたポストに就任することは軍司令官となる事を意味した。彼らは20代前半の数年間を見習い将校として、地方で軍務についた後はしばらく行政職を経験し、30代で軍団司令官、あるいは1個軍団駐屯属州の総督となることができた。さらに40代では複数軍団が駐屯する属州の総督ともなって、さらなる大軍を率いる立場にもなりえた。つまり元老院議員は20代で数年の軍務を経験しただけで、次に軍事職に就く際にはいきなり1個軍団(約5000人)を率いる立場になったのであり、ローマ軍はアマチュア指揮官に率いられていたということになる。しかもこれに加えて、帝国の安定のなかで元老院階級は文人化し、軍務を忌避するようになっていた。そのため、家柄が良い者は、20代の見習い将校キャリアや、1個軍団長といったキャリアをスキップして、その上位の役職につくこともあったため、尚の事ローマ軍の指揮官たちの軍務経験は乏しいものとなった。外敵に敗れた、ゴルディアヌス3世やデキウスにしても軍務経験には乏しかったことが敗因としては考えられる。ローマが平和であるうちには、軍事の素人が指揮官であっても大きな問題はなかったが、対外戦争が頻発する時代にあっては大きな問題になっていた。

 また2つめの理由の中央軍の弱体については、背景として共和制末期以来、イタリアには軍団を置かないという慣習があった。初代皇帝アウグストゥスは、自らの権力基盤を固める過程で、実際には独裁を推進しつつも表面的にはむしろ共和制の復活を演出した。その一環としてアウグストゥスは従来の伝統を踏襲して、軍隊は辺境地帯にのみ配備し、イタリアには軍隊を置かなかった。よって、首都ローマの皇帝の下には、4500人程度の近衛兵のほか、首都警備隊などを含めて総勢1万人程度の兵力しかなかった。軍事力をバックに権力を掌握したセウェルス帝は、イタリアに新たに軍団を配備し、近衛軍も拡充したため、皇帝の兵力は2万程度にまで増えたが、それでも属州全体で30万人の兵力が配備されていたことからすると相対的には弱体で、しばしば地方で担がれて皇帝を称した反乱者に、ローマにいる正統な皇帝が敗れる結果につながった。

 

■ウァレリアヌスの改革

 253年にアエミリアヌスを倒して皇帝となったウァレリアヌスは、一般的にササン朝のシャープール1世との戦いに敗れて捕虜となったことで有名である。しかし、そのような不名誉なイメージに反して、本書はウァレリアヌスを、この時代のローマが危機から脱するのに必要な改革を行ったとして高く評価している。その改革とは具体的に以下の3つである。

  • 分担統治の導入
  • 能力主義的な人材登用
  • 中央機動軍の創設

 

まず、分担統治についてだが、ウァレリアヌスは即位すると息子のガリエヌスを共同帝として、帝国の統治を東西で分担した。単純に、ゲルマン人ササン朝が各方面から攻め寄せてくるのを、一人の皇帝で防ぎきることが困難であったのに加えて、238年以来の混乱期のなかでは、皇帝が不在の戦線において、軍隊が指揮官を皇帝に担ぐことが頻発し、簒奪の温床ともなっていた。ウァレリアヌスは、帝国の統治を分担することで、効率的に外敵からローマを防衛するとともに、皇帝不在の戦線を残さないことで、軍隊による皇帝擁立を未然に防ごうとしたのである。こうして親子は254年にはローマを離れ、ウァレリアヌスは東方へ、ガリエヌスはライン川方面に向かい、それぞれ外敵に対処したのだった。後の時代のディオクレティアヌスによるテトラルキア(四帝分治制)は有名だが、ウァレリアヌスの試みは、これを先取りしたものと言える。ウァレリアヌス以前にも、共同帝を置いた例はいくつかあるが、帝国領土を分担して統治するという発想ではなく、ウァレリアヌスの施策は画期的なものだった。

 次の能力主義的な人材登用についてだが、ウァレリアヌスはそれまでの、重要ポストには元老院議員を充てるという帝国の慣習を放棄して、出身身分に関わらず能力のある者を重要ポストにあてた。例えば、先に述べたガルス治世のシャープール1世との戦のなかで功をあげた、パルミラの指導者オダエナトゥスを、ウァレリアヌスは1個軍団を擁する重要属州、シリア・フォエオキアの総督に任じた。オダエナトゥスは251年に元老院身分を与えられていたとはいえ、公職序列で求められるようなキャリアは積んできておらず、このような抜擢は異例であった。そのほかにも、自身の側近である近衛長官に、ゴート人撃退に功のあったスッケシアヌスという地方軍の指揮官を登用したり、本来元老院議員が充てられるべき属州総督のポストに騎士身分の人物を用いるなどしている。西方の統治にあたったガリエヌスも父と同様に身分にとらわれずに登用した有能な人物たちで幕僚を形成して、外的との戦いにあたっていた。一般的に、ガリエヌスは、父がササン朝に敗れたあとの単独統治期に、勅令によって軍事職と行政職のキャリアを分離し、元老院議員を軍事職から排除したと言われている。しかし、実際にはウァレリアヌスとガリエヌスの共同統治期からすでに出自や経歴に囚われない人材登用が進み、元老院議員は軍事職から姿を消していっていたのである。

 最後に中央機動軍の創設である。ウァレリアヌスは東方で黒海沿岸を襲撃してくるゴート人や、ササン朝に対処し、ガリエヌスも西方でゲルマン系民族に対していた。そのため2人とも首都ローマには不在がちで、恒常的に前線に近い箇所に留まり軍を率いていた。従来、ローマ帝国の軍隊は基本的に辺境防衛のために国境沿いに駐屯しており、遠征などに際しては、それらの常設の軍隊から一部の兵力を供出して遠征軍を編成し、戦役が終われば解散して元の部隊に戻っていた。しかし、皇帝が長期間にわたって辺境で各地を転戦しつつ防衛にあたるとなると、皇帝のもとに常設の機動軍が必要になる。またこの中央機動軍の創設に際しては、騎兵部隊の比重も高まったと思われる。この時期から、史料には騎兵長官や騎兵部隊の活躍がしばしば表れるようになる。従来のローマ軍は重層歩兵を中心とし、騎兵は補助的な役割に留まっていたが、恐らくこの時期から、帝国の各所に侵入する外敵に迅速に対処するために、機動力のある騎兵の役割が大きくなっていたのだと思われる。後にコンスタンティヌスはコミタテンセスという野戦機動軍を置き、そこでも歩兵長官と騎兵長官が並立されたが、ガリエヌスの中央機動軍はこれの先駆的な試みだったと言える。

 

 このように各種改革を行ったウァレリアヌス自身は、260年にシャープール1世との戦いに敗れ、捕虜となってしまう。その後の消息は知れないが、シャープール1世によって屈辱を味あわされた挙句、殺されたとも言われる。しかし、彼が行った諸改革は時宜にかなったもので、実際にこれ以後の時代、ウァレリアヌスが推し進めた方針がさらに徹底されていくことになる。

 

 

■イリュリア人皇帝の時代

 こうしたウァレリアヌスの諸改革は、ローマに迫る危機を克服するためのものだったが、同時にローマの支配階層の変化をも引き起こした。先述の通り、ウァレリアヌスとガリエヌスは中央機動軍を常設化しローマを離れて帝国の防衛にあたっていたため、その軍人たちと日々接する一方で、元老院との関係は希薄化した。そうした環境も、皇帝のそばにいる軍人たちが皇帝の側近や属州総督といった高官に抜擢されやすい環境を形作っていた。

 さて、ウァレリアヌスが260年に捕囚の身となると、帝国は混乱に陥り帝位僭称が相次いだ。ウァレリアヌスの配下で騎士身分だったマクリアヌスは、敗軍をまとめてその主導権を握ると二人の息子を皇帝に選出した。しかし、マクリアヌスとその長男はガリエヌスとの対決のため西方に向かったが、ガリエヌス配下のアウレオルスに敗れた。次男は東方に残っていたが、これもまたガリエヌスの命を受けたパルミラのオダエナトゥスに滅ぼされた。オダエナトゥスはこの功績によって「全東方の司令官」に任じられ、これによってガリエヌスは東方の混乱を収拾した。

 その一方、ガリアではポストゥムスという人物が皇帝を称し、ガリアに留まらず、ブリタニアヒスパニアからも支持を受けて、これら領域は「ガリア帝国」としてガリエヌスの支配政府から離脱した。ポストゥムスの出自ははっきりしないが、おそらくは当時のライン軍団の指揮官であった。

 こうして、ウァレリアヌス帝捕囚後のローマ帝国は、正統帝ガリエヌス、その宗主権を認めつつも東方を支配するオダエナトゥス、独立したガリア帝国のポストゥムスで3分されることになった。これは結果的には分担統治と同じ役割を果たし、ガリエヌスは267年まで比較的平穏な治世を送ることができた。

 このようにしてガリエヌスの支配領域はローマ帝国の中央部、イタリア、バルカン、北アフリカ、エジプト、小アジアに限定された。その領域内で軍人の供給源となったのはイリュリア地方だった。イリュリアというのは現在でいう旧ユーゴスラヴィアからハンガリー西部にかけてのドナウ川ぞいの地域のことだ。ドナウ川はローマの防衛線であり、イリュリアはまさにローマの前線だった。ローマは防衛線沿いに多くの軍団が配置しており、その兵士は主として現地の人間が供給源となっていた。またローマ軍は防衛線沿いの駐屯地において、ラテン語公用語とし、ローマ式の生活を営んだため、こうした辺境地帯において採用された兵士を通じてローマ化を促進する役割も果たしていた。イリュリクムは軍事的に重要な土地で、多くの軍が配備されていたが、元老院議員はほとんど輩出しなかった。多くの場合、元老院議員はブドウやオリーブ農地の大土地所有によって収入を得ていたのであり、気候風土がそれに適しないイリュリクムではこうした富裕層が成長しなかったのである。また、軍団が多く配備され兵士の口が多かったため、自作農の次男三男は軍に入り、兵士として給金を得て家族に送ることができ、中小自作農が没落しなかったのも、大土地所有が広まらなかったことの一因である。イリュリクムはこのような土地柄ゆえ、その人々は勇猛だが粗野だとして、中央からは見下されていた。しかし、イリュリクム人たちは軍務の中でローマに敵対するサルマタイ人やゲルマン人と対峙するなかで、ローマ人としての意識を高めていった。また、上記の通り、土地が貧しく豊かではないなかで、ローマ軍の存在によってその経済が成り立っていたことも、彼らとローマ帝国運命共同体であると思わしめ、愛国心を高めたものと思われる。その点、ガリアもまたライン川という帝国の前線に接して、多くの軍団を抱えていた点ではイリュリクムと類似しているが、イリュリクムとは違って土地が豊かで、経済が自活可能であったため、ガリア帝国という形で帝国から分離する結果となった。

 このようなイリュリア人たちが、ガリエヌス支配下の帝国では軍人の供給元となり、中央機動軍の幕僚陣を形成していったのだが、269年、ガリエヌスはこのイリュリア系軍人たちの共謀によって暗殺された。暗殺に至る経緯は不明だが、尚武の気風を持つイリュリア軍人たちと、ギリシア文化を愛好する皇帝のそりが合わなかったとも、イリュリア地方への蛮族の侵攻を放置して、反乱者の鎮圧に向かったことが怒りを買ったとも言われるが、皇帝がひとり元老院から遊離して機動軍の軍人たちに囲まれる環境自体が、軍人たちからすると容易に皇帝を廃して帝位を手に入れられる状況であったこと、常設化された中央機動軍の幹部メンバーが固定化され、謀議を進めやすい環境であったことも、ガリエヌス暗殺の要因だと言える。

 ガリエヌスの後、帝位についたのは、暗殺を主導した幹部の一人クラウディウスだった。その後、アウレリアヌス、タキトゥス、プロブス、カルスと皇帝が続くが、そのうちアウレリアヌス、プロブス、ディオクレティアヌスはイリュリア出身軍人であり、タキトゥスとカルスも、イリュリア軍人出身である可能性がある。彼らは軍務経験が豊かな軍人であり、対外的な戦いに勝利を収めていった。特にアウレリアヌスは、オダエナトゥス死後にゼノビアが継いで、父と異なり反ローマ姿勢を明確にしたパルミラ王国と、ガリア帝国を滅ぼし、ローマの統一を回復した。

四分治制の導入で有名なディオクレティアヌスもまたイリュリア軍人出身の皇帝で、分担統治によって外敵から効率的に帝国を防衛し、3世紀の危機を収拾することに成功した。ディオクレティアヌスは四分治制のほか、元老院議員を重要ポストから排除し、総督を軍権から切り離すなどして、皇帝専制政治化を推し進めたため、後期ローマ帝国を特徴づける改革を行った皇帝として知られているが、先述の通り、帝国の分担統治や、元老院議員の重要ポストからの排除といった内容はウァレリアヌス帝以降推し進められてきたもので、ディオクレティアヌスは最後の軍人皇帝として、こうした政策を極限まで進めたとみることもできる。

 このクラウディウスからディオクレティアヌスに至るまでの時代、ウァレリアヌスが創設したイリュリクム人からなる中央機動軍が帝国政治において重要な役割を果たした。彼らは一度も壊滅することがなく、結束して行動し、皇帝の選出において主導的な役割を果たし、あるいは自らのなかからメンバーを皇帝としたのであった。さらに皇帝だけに限らず、軍司令官や政府高官にも、中央機動軍出身者が就任する例が見られ、混乱する帝国を立て直すのに貢献したのであった。

 

■フランク軍人の台頭と軍人貴族層の成立

 さて、3世紀の危機を乗り越えるのに力を発揮したイリュリア軍人たちだったが、テトラルキア以降、その影響力は減退していく。そもそも、ガリエヌス治世下で軍人たちのなかでイリュリア軍人が支配的な存在となったのは、当時の帝国が正統なローマ皇帝と、パルミラガリアの支配者とで3分され、ガリエヌス支配下の帝国で軍人供給源となる地域がイリュリアだったから、という事情によっていた。帝国の統一が回復し、テトラルキアのもとで4人の皇帝がそれぞれの任地で帝国防衛を担うようになり、各皇帝はそれぞれの担当地域で軍人を募ることになった。テトラルキアディオクレティアヌス帝の退位後に不安定化して内乱に至るが、その勝者となったのは、ガリア方面を担当していたコンスタンティヌスだった。ローマ西北部を担当していた彼の軍の主力はゲルマン系軍人たちであり、コンスタンティヌス帝のもとではこのゲルマン系軍人が主導権を握り、バウト、リキメル、アルボガスト、スティリコといった軍人たちが登場してくることになる。

このようにゲルマン系軍人の台頭が目立つ一方で、コンスタンティヌス自身は元々はイリュリクム方面の軍人の家の出身だった。コンスタンティヌス朝断絶後のウァレンティニアヌスはイリュリクムの、その後のテオドシウスはヒスパニアの軍人家系出身だった。いずれにせよ、コンスタンティヌス朝以後も皇帝のなったのはいずれも軍人出身であり、イリュリア人による独占は崩れつつも、新たに台頭したフランク系も含めて、互いに縁戚関係を結び、軍人貴族層が形成していき、4世紀以降のローマでの主導権を握った。

 

元老院復権

 このように軍人貴族が帝国の実権を握る一方で、元老院も変質を遂げていった。ディオクレティアヌス元老院議員を殆ど用いなかったのに対して、コンスタンティヌス元老院復権を進めた。しかし、これはそのまま旧来の元老院議員たちの復権を意味したわけではなかった。彼らは元老院議員を大幅に増員し、騎士階級や都市参事会員を元老院に取り立てたのであった。コンスタンティヌスが率いたのは先述の通り、フランク人らからなる軍であって、ディオクレティアヌスまでのイリュリア人皇帝と異なり、自らの出身母体で支持基盤となるイリュリア人軍人による中央機動軍を持たなかった。そのため自らの権力基盤を固めるため、旧来の元老院議員も含めて、富裕層を自らの支持基盤の引き入れるとともに、彼らの関心を再度帝国統治に向けさせる狙いがあった。コンスタンティヌスは新都コンスタンティノープルを創建するとともに、そちらにも元老院を設置し、新たに元老院議員を登用した。こうして復権した元老院ではあったが、一方で軍事職からの排除は継続され、彼らはあくまで行政職にしか登用されなかった。その意味では、元老院復権したとはいえ、従来と同じ姿に戻った訳ではなかった。

 さらに、元老院議員が就くべき役職が増加した後、そうした役職を元老院議員が独占したのではなく、逆にそうした役職に就任した者に元老院議員身分が与えられるようになっていった。後の時代には、軍事職においても、高官となれば元老院議員身分が付与されるようになった。つまり、元老院議員とは、行政・軍事のキャリアにおいて昇進した結果得られるものとなったのであり、これは旧来の貴族的な元老院議員とはかなり異なる存在であると言えよう。

 

元老院貴族の失墜とローマ文明の消滅                             

 本書では、こうしたコンスタンティヌス朝下で登用された新たな元老院議員から区別する意味合いで、それまでの旧来の元老院議員を「元老院貴族」と呼称している。元老院貴族は、主として帝国西部に所領を持つ大土地所有者で、その気風は多分に文人的な知的エリートであって、煩わしい公務から退き、自分の所領で文筆に専念することを夢見ていた。彼らのような富裕者は、かつては各種公共事業やイベントに必要な費用を提供するエヴェルジェティズムを盛んに行い、社会に貢献するとともに、人々の尊敬を受ける立場であった。しかし、そうした活動は3世紀以降低調となってしまう。その理由として本書は、元老院身分の取得が容易になったことで、その特権獲得を目指す富裕層の関心が、自らの属す都市ではなく帝国政府に向かうようになったことと、心性が変化し、以前のように後世の人々に記憶されることを重視しなくなったことを挙げている。なお筆者が2021年に出版した「シルクロードローマ帝国の興亡」のなかでは、3世紀にはローマのシルクロード交易が各種要因で大幅に後退したことが、ローマ全体を不況に陥れ、元老院貴族の経済状態が悪化したことが、エヴェルジェティズムを停止させたとして論理を補強している。

 いずれにせよ、エヴェルジェティズムをやめ、現実の社会への関心と関与を失った元老院貴族は、もはや人々の尊敬を集める存在でもなく、影響力・指導力を低下させていた。3世紀以降台頭してきた軍人貴族は、こうした元老院貴族を等閑視し、彼らと縁戚関係を結ぶこともなかった。

中国南北朝では、軍事力をもって政権を得た為政者たちが、結局は文人貴族たちと縁戚関係を取り結び、自らも貴族化していったことで、中国では政治的な混乱にも関わらず、文人貴族と彼らが担った中華文明が断絶することなく命脈を保った。しかしながらローマでは元老院貴族は、社会からも、新たな支配者層である軍人貴族層からも遊離した存在になっており、西ローマ帝国の崩壊をもって、元老院貴族たちも、彼らが担うローマ文明も姿を消したのであった。

 

■感想:ヨーロッパと中国における文明の継承についての考察

 本書は概要の欄でも書いたように、軍人皇帝という一見限られたテーマを扱っているように見えて、3世紀以降のローマ帝国の変質と、ヨーロッパと中国における、古代文明の継承という大きなテーマを持つ、非常に面白い内容になっている。

 冒頭に書いた通り、地球規模の気候寒冷化のなかで、ヨーロッパと中国の双方において、古代帝国が北方の異民族によって滅ぼされるという類似した歴史過程のなかで、中国では中華文明が生き永らえたのに対して、何故ヨーロッパではローマの古典文明が断絶したのか、という点が本書の関心の出発点である。ブログ主は以前、川勝義雄の『魏晋南北朝』(講談社学術文庫)を読んだことがある。まさにこの同時代の中国史を扱った本だが、川勝も同様の関心を著書のなかであらわしていたことを覚えている。そして、本書の筆者である井上もまた、冒頭のなかで川勝の著書を本書のなかで引用して、この問題設定についての導入としている。

本書のなかで、井上は文明の担い手である知的エリート層に着目し、ローマにおいては3世紀の動乱のなかでの支配者層の変化によって、旧来の支配者層で、知的エリート層たる元老院議員が、軍人皇帝たちによってとって変わられ、影響力を失っていったことが帝国とともに古典文明も滅んだ理由と分析した。

 井上は、元老院貴族がエヴェルジェティズムを放棄し、社会的な尊敬を受けなくなったことで、軍人貴族も彼らを軽視して縁戚関係が形成されなかったため、中国と違って文人貴族が実権を握った為政者たちを同化できなかった理由としており興味深い。また本書では元老院貴族がエヴェルジェティズムを放棄してしまった理由として、元老院貴族の関心の対象と心性の変化が挙げられたが、井上はこの点の分析について、本書のあと2021年に出した『シルクロードローマ帝国の興亡』のなかで、シルクロード交易の沈滞によって、ローマ全体の財政が悪化し、同時に元老院貴族の経済状態も悪化したことがエヴェルジェティズムの停止につながったという仮説を提起している。(詳しい内容は別記事にてまとめようと思う)こちらも実に面白い内容なのでぜひ読んでみて欲しい。

さて、本書の内容を受けて、比較対象である中国について考えてみると、中国においても文人貴族たちは魏晋期において清談に耽って実際の政治への関心を失っていたし、あるいは南朝の梁では、軍を指揮する立場にありながら文人貴族化したある皇族が、馬を見て「これは虎じゃ」と言って怖れたエピソードが知られるなど、少なくとも現実の政治にあたるべき為政者としては時代とともに劣化していった点では、元老院貴族と類似しているようにも思える。そのため、逆になぜ中国では文人たちが一貫して支配者層に留まり、中華文明が求心力を保持できたのかという点もまた興味深い疑問だと思うが、それについてはまた時間があるときに別記事にて自分の考えをまとめてみたいと思う。