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マレーシア・東南アジアの歴史① 島嶼部東南アジア史の概観 / イスラーム化以前の東南アジア

はじめに

 私は縁あっていま、マレーシアに住んでいる。折角、異国の地に住むのだから、その土地と人々の歴史を知りたいと思い、何冊かの本を読んでマレーシアの歴史について調べてみた。その内容を自分自身の忘備録、また何かのきっかけでマレーシアに興味を持った人の役に立てばと思い、blogにまとめておこうと思い立って、この記事を書くことにした。

参考にしたのは以下の本

 池端雪浦 編「東南アジア史Ⅱ 島嶼部」山川出版社

 川中豪/川村晃一 編著「教養の東南アジア現代史」ミネルヴァ書房

 岩倉育夫「物語 シンガポールの歴史」中公新書

 

今回の記事はほぼ「東南アジア史Ⅱ」による。

また、少しずつ加筆していくため、今後参考図書が増える可能性もある。

 

マレーシアという国のはじまり

 マレーシアというのは立憲君主制の国で国王がいる。しかし国王といっても日本の皇室やイギリスのウィンザー朝とはイメージが異なる。マレーシア国王はひとつの王統で代々受け継がれるのではなく、5年おきの選挙で決まるのである。マレーシアの州のうち、9つの州には世襲の君主(スルターン)がいて、これらの君主が互選で国王を選出する。互選とはいうが、慣習上輪番制になっており、これら9州の君主が順番に国王を務める、というのがマレーシアの王政だ。輪番制の国王というのは日本人からすると不思議で物珍しく思えるが、このような仕組みにはマレーシアという国の成り立ちが関係している。

 この国の歴史について考える際、今のマレーシアという国民国家はイギリスの植民地だった英領マラヤが元になっているという点を押さえておく必要がある。イギリスが植民地として支配するまで、現在マレーシアと呼ばれる領域には、多くの王国が分立していて、それを統一的にに支配するような権力はなかったのである。イギリスが、効率的な植民地統治を行うために一元的な行政機構を設けたのが、いまのマレーシアに直接的につながる国家の始まりなのだ。だから、マレーシアには今でも9つの州にスルタンがいる一方で、単独で国王を代々引き継ぐような家系は存在しない。しかし統一的な権力がなかった一方で、マレー半島は、今のインドネシアに含まれる地域とも歴史的なつながりが深かった。かつてこれらのエリアは交易で栄え、同じ海洋東南アジア世界という同一の歴史空間として展開を見せてきた。しかし、イギリスとオランダが東南アジアにおいて勢力を競い、最終的には1824年にマラッカ海峡で互いの勢力圏を区切ったため、両者はマレーシアとインドネシアという別の国として歴史を歩むことになった。だから、特に植民地化以前の歴史を語るときは、今のマレーシアの範囲よりも広い範囲が対象となる。

 

島嶼部東南アジア史の概観

風土と社会の特徴

 まずはマレーシアが属する島嶼部東南アジア全般の歴史を概観しておきたい。東南アジアは一般に、タイ、ベトナムミャンマーカンボジアラオスといった大陸部と、マレー半島や、インドネシア、フィリピンといった島嶼部で分けられる。前者はメコン河や紅河などの複数の大河と、その流域の平野部を持ち、またモンスーン気候に属するため稲作に適しており、農業に基盤を置いた社会が成立した。一方でマレーシアが属する島嶼部は、年中湿潤で熱帯雨林に覆われており大規模な農業には向かない。熱帯雨林は豊かな森の恵みをもたらすものの、日光が地面まで届かず年中高温湿潤なため病原菌の温床であり、人間には厳しい環境だ。このような熱帯雨林地域において、人々は森林の密度が下がる高地か、森が切れて日や風の通る海岸や河川沿いといった、限られたエリアに居住し、森林産物や水産物の採集と交易を基盤とする商業的な社会が成立した。

 この地域の住人にとって、森や海の産物の採集、生産、流通は彼ら自身の生活の糧であったが、同時にこの地は古くから「海のシルクロード」と呼ばれる世界交易路の通り道であった。現在も地政学上の焦点としてしばしば話題となるマラッカ海峡は、古くより東の南シナ海やジャワ海と、西のベンガル湾をつなぐ交通の要衝であった。特に蒸気船が出現する以前の遠距離交易はモンスーンの風と海流に依存しており、商人たちは、モンスーンに乗ってマラッカ海峡まで来た後は、季節が移って逆向きのモンスーンが吹くまではここで風待ちをして帰路についたのだった。また、島嶼部東南アジアはただ交易の通り道であったわけではなく、それ自体が香辛料など、世界で珍重される産物を生み出す地でもあり、そうした物の生産や流通を扱う地元の人々の経済活動と、外来者との交易活動が重なり合い、多様な港市を結びつけるネットワークが発展した。中国、インド、ヨーロッパといった様々な地域からの人や物がこのネットワーク上を行きかい、コスモポリタンな世界が形成されたのがこのこの地域の大きな特徴であり、他民族国家マレーシアの源流もここにある。

 

植民地化と国民国家

 このように交易の海として栄えた島嶼部東南アジアだが、19世紀に大きな変化を迎える。15~17世紀は交易の時代とも言われ、特に東南アジア交易が特に繁栄した。この時期ヨーロッパの国々が交易の利益を求めて東南アジアへ進出してきた。彼らの影響によって東南アジアの交易は遠くヨーロッパや新大陸ともつながり、更なる活況を呈す。一方、ポルトガルやオランダは交易の独占を試みたが、成功は一時で、東南アジアの海を支配するには至らなかった。マラッカ海峡を中心としたエリアでは在地の様々な港市国家が、ときにヨーロッパの勢力と結んだり敵対しつつ盛衰を繰り返すが、総体として交易の海としての活況が衰えることはなかった。

 しかし、17世紀末ごろから、香辛料価格の下落や、清朝の遷界令、江戸幕府鎖国などを背景に東南アジア交易は勢いを減じ、それまで貿易特権の獲得を主眼としていたヨーロッパ諸国は、次第に陸の資源を求めて領土拡大を志向するようになる。こうして19世紀には島嶼部東南アジアはイギリス、オランダ、スペインの植民地として支配されるに至った。彼らの支配のもとで東南アジアはゴムや錫などといった内陸部の一時産品を世界市場に供給する役割を負うことになり、そうした商品作物の栽培や、資源開発に必要な労働力として、インドや中国からの移民が大量に投下された。宗主国は、効率的な植民地経営のために、法制度や官僚機構、通信や教育といった統治機構を整備した。多数の港市が結びつく多元的な世界が、ヨーロッパの勢力圏分割にともなって寸断されるとともに、それぞれの内部では一元的な支配構造がもたらされたのであった。こうして誕生した植民地国家では、だが同時に独立を求めるナショナリズムも目覚めることとなり、日本の占領期を挟んで第二次大戦後には、各国がも宗主国から独立を果たす。独立した東南アジアの国々は、基本的に宗主国が築いた国家機構を継承しており、植民地国家を母胎として誕生しつつも、国民国家として自立の道を模索し葛藤することになる。前述のようにマレーシアも、イギリス植民地のマラヤ連邦を母体として戦後独立し、他民族国家としての課題に向き合いつつ今日に至っている。

 

 

イスラーム化以前の東南アジア

 

14世紀以前の東南アジア史研究の特徴

 島嶼部の東南アジア史研究では、当事者による文献資料が14世紀ごろまでは非常に乏しく、中国やインドといった周辺諸国が東南アジアについて言及した資料に依存せざるを得ないという不利な条件にある。例えば中国の史書がいうところの「三仏済」は重要な概念でありながら、何を指しているのか必ずしも明確ではないなど、他者によって著された資料に頼った研究には困難が伴う。そのため、研究者は史書を比較検討したり考古学的資料と合わせて、多角的に歴史を再構成する必要があるが、やはり事実がはっきりせず推定によるしかない部分が多く残っている。

 

東南アジアの交易ルート

 交易を核として歴史が展開する東南アジアだが、紀元前後には既にインドや中国との接点があったことが確認できる。その頃、南インドでつくられていた土器やビーズが東南アジアや中国南部の広州でも多数見つかっており、このことは既にこれらの地域が接点を持っていたことを示している。前2世紀末には前漢武帝ベトナム中部まで進出して日南郡をおいた。中国の使者はここを通じて南インドと往復し、さらにインドやローマ帝国の使者もここを通じて中国に朝貢した。東南アジアの人々は、彼ら自身の生活のために元々近隣地域と海上交易を行っていたが、上記のような遠方を結ぶ海の道は、こうした東南アジア海域内に既にあった近隣との海上ルートを次々に乗り継ぐことで成立していた。

 3世紀ごろの交易ルートは日南郡―扶南―頓遜―インドというもので、これはマレー半島の付け根で一旦陸路をとり、ベンガル湾で再度海に出るものだったが、次第にマラッカ海峡を通じて全て海路を採るルートが台頭し、7世紀ごろには完全にこちらがメインとなる。陸路を挟むより、一気に海路をとる方が余計な荷下ろし、荷積みがない分有利であり、特に運搬する財物が大量で壊れやすいものであれば、尚更その優位性は増す。それでは、何故7世紀にこの交易路の交代が生じたのかというとはっきりしないが、恐らく、この時期にジャワ島の稲作が発展したことで、海域東南アジアの非農業人口を支えるだけの余裕が生まれて商業・交易活動がより活発化したこと、隋唐世界帝国の成立により交易活動が活性化してアラブやペルシアの船の来航が増えるなかで、航海技術が進歩したこと、7世紀はじめの赤土国以降、マラッカ海峡に強力な交易国家が生まれて航海の安全が確保されたことなど、いくつかの条件が揃ったことが、この変化を促したのだと思われる。反対に、これによって交易ルートから外れた扶南は没落した。

 

シュリーヴィジャヤと大乗仏教

 前節で触れた赤土国の位置ははっきりしないが、マレー半島南部からスマトラ周辺に支配を及ぼしていたとされる。この国は短命に終わったが、644年にはスマトラ島南東部のパレンバンのマラユ国が中国に朝貢している。670年ごろからはマレー半島東岸のどこかに位置したシュリーヴィジャヤ(室利仏逝)が強勢となり、682年にはマラユを滅ぼして、パレンバンを自らの都とした。シュリーヴィジャヤはさらにマレー半島西岸のクダも支配下に収め、東のパレンバンと西のクダの二大中心地を拠点としてマラッカ海峡交易を支配した。

 パレンバンで見つかったタラントゥオ碑文は王がシュリークシェートラという園林を造営したことを記しているが、これは「一切衆生がこのうえない正しい覚りをえるように」との王の請願をうけて作られたとされており、大乗仏教色が濃い。しかしながら、別の碑文、トゥラガバトゥ碑は誓忠飲水の儀式について書かれたもので、これは臣民が王に忠誠を誓う証しとして水を飲み、もし誓いに背けば水の呪術によって殺されるとされている。この呪術信仰からは仏教色は見いだせない。この時期、唐の義浄がインドと往復の旅をする途中、パレンバンに逗留している。義浄はパレンバンには多くの僧がおり、その学問や儀式の行い方はインドと全く同じであると記している。本当の意味で宗教を受容すれば、必ずその土着の要素が入り込むものだが、そうした要素がなく、本地と全く同じということは、逆説的にシュリーヴィジャヤにおける仏教が借り物であったことを示唆している。彼らにとって仏教や園林シュリークシェートラは、自らを文明国であると誇示して、交易相手であるインドや中国に対するときに優位に立つための道具に過ぎず、自国内では土着で信仰されている呪術的な世界観が主流なままだったのだろう。

 

シャイレーンドラ朝と「三仏斉」

 シュリーヴィジャヤから中国への朝貢の記録は742年に確認されるのを最後に途絶え、一方で768年からは「訶陵」の朝貢が記録される。訶陵はジャワの王国で、この時期のジャワではシャイレーンドラ朝が強勢であったため、ここで言及された「訶陵」はシャイレーンドラ朝に同定される。シャイレーンドラ朝は仏教国で、「シャイレーンドラ」はサンスクリット語で「山の王」の意である。故地には議論があったが、ジャワで7世紀ごろのセレーンドラ王の碑文が見つかり、これがシャイレーンドラ朝の祖と考えられるため、現在ではジャワ起源説が有力だ。シャイレーンドラ朝は8世紀後半から東南アジアを席捲し、シュリーヴィジャヤを支配したほか、遠くベトナムカンボジアにまで遠征したとの記録もある。しかし、9世紀半ばにサンジャヤ朝(古マタラム王国)と争ってジャワを追われ、スマトラ島方面を支配するのみとなった。

 11世紀の中国資料では「三仏斉」という言葉が出てくる。かつて、三仏斉はシュリーヴィジャヤのことだとされていたが、そうだとすると同時に複数の三仏斉が朝貢していることになるなど矛盾が多いため、現在その説は支持されない。おそらく、三仏斉は一つの国を指すのではなく、マラッカ海峡周辺のマレー半島スマトラ島の交易国家全般を指しているのだと思われる。三仏斉は9世紀のアラブ史料にあらわれる「サーバジュ」に相当する語だが、アラブ史料は「サーバジュの大王が治める国々にはシュリーヴィジャヤ、スマトラ北端部、クダが含まれる」との言及の仕方をしており、シュリーヴィジャヤはサーバジュ=三仏斉の一部とされていることから、これも三仏済=シュリーヴィジャヤを否定している。さらに「サーバジュは」サンスクリット語の「ジャーヴァカ」に相当し、ジャーヴァカは「ジャワの」「ジャワに属する」といった意味合いである。13世紀にマルコ・ポーロはジャワを「大ジャワ」、スマトラを「小ジャワ」と呼んでいるが、これは上記の呼び名を継承したものだ。またアラブ史料でジャワ本島を「ムル・ジャワ」(本当のジャワ)と呼ぶ資料もある。これらを考えあわせると、三仏斉―サーバジュージャーヴァカは「小ジャワ」に相当する語であることが分かる。これは、元々はジャワを本拠としたシャイレーンドラ朝が勢力をスマトラマレー半島にまで広げた後に、本地を失ったことに起因して、シャイレーンドラ朝のジャワ以外の領土(マレー半島スマトラ)が「三仏斉」と呼ばれるようになったのではないかと考えられる。

 960年に中国で宋が建つと、三仏斉諸国もこれに朝貢した。この時期、三仏斉はジャワの攻撃を受けたが、宋の皇帝にとりなしを頼むなどしてこの挑戦を退けた。また1000年代はじめごろの中国とインドの記録を合わせると、この頃にはシャイレーンドラ家がクダで勢力を回復して、宋やインド南部のチョーラ朝と関係を結んでいたことが分かっている。チョーラ朝は一時、クダを占領してマラッカ海峡交易を独占するが、やがて勢力が衰え、再びシャイレーンドラ家と協力を結んでいる。このように、東南アジアの歴史は中国やインドと密接に連関しながら展開した。

 

ジャワの歴史

 ジャワは島嶼部東南アジアにおいて、特殊な位置を占める。この地域は基本的に農業に適さないと述べたが、ジャワだけは例外なのである。ここには活火山があり、噴火と火山灰は熱帯雨林の生成を妨げるとともに、肥沃な土壌をもたらすため、稲作に適している。そのため、ジャワには農業を基盤とした社会が成立した。ジャワは文字資料が乏しい本地域にあって、7世紀以降は多くの刻文資料を遺しており、これらを通じて歴史を再現することができる。

 稲作、特に灌漑には、同一水系のムラとの協力や利害調整を必要とするため、ムラを代表する第一人者である「ラカイ」(兄の意)という地位が生まれた。ラカイは次第に権力者に変質していくとともに、稲作発達による生産能力の向上は非生産人口を増加させ、ラカイを補佐する支配階層も形成する。こうした小規模な権力が3世紀ごろまでに多数形成され、互いに競合するようになった。そのなかで、他のラカイより優位に立つためにインド文化を取り入れる者もあらわれた。こうした多数のラカイの中に、先述したシャイレーンドラ朝や、後にジャワを統一する古マタラム王国のサンジャヤ王の家系もあったと考えられる。

サンジャヤ朝(古マタラム王国

 サンジャヤ王統のピカタンはシャイレーンドラ家の王女プラモーダワルダニーと842年に結婚したが、一説ではボロブドゥールを建設したのはこの王女だとも言われる。はっきりとはしていないが、仏教徒のシャイレーンドラ家とヒンドゥー・シワ教(シヴァ神信仰)のサンジャル王統の結婚は対等に近いもので、この王女にもそうしたことが可能なだけの力はあったようだ。しかし、後にシャイレーンドラのバーラプトラ王子(王女の末弟)がピカタンに戦いを挑んで敗れ、ジャワを逃れる。シャイレーンドラは先述の通り、マラッカ海峡方面で勢力を遺すが、ジャワではこれ以降存在が確認できない。

 928年のものを最後に、中部ジャワには刻文が存在せず、この時代以降の物は東部ジャワからのみ見つかることから、この時期に王権の中心が中部から東部にうつったことが分かる。しかし、中部から東部に中心地がうつったといっても、王統には連続性が確認されており、ここで王朝や支配階層の交代は生じていない。いくつか仮説が挙げられており、一説では火山の噴火とも言われるが、それを積極的に支持する証拠はない。そもそも中部よりも東部の方が、川を通じて容易に海に接続できるため交易に有利なロケーションであり、王権の支配が東部にまで及んだのであれば、そちらに移動するのは、むしろ自然な成り行きで、従来考えられるように中部が放棄されたわけでもないのでは、とする考えもある。

 

カディリ朝・シンガサリ朝

 その後、ジャワの王権は数度の王朝交代を経ている。先述のように990年には三仏斉の覇権に挑戦しているが、失敗に終わっている。このときの王ダルマワンサは、1016年には中部ジャワのラカイの反乱にあって殺され、都も焼かれている。ダルマワンサの娘婿を自称するアイルランガは森に逃れて、1019年に即位を宣言、その後さらに苦闘を経てジャワを再統一した。彼は海に通ずるプランタス川沿いのカディリに都を定め、ジャワはおおいに栄えた。

 このアイルランガとそれに続く諸王の後、刻文の記録がない時代を挟んで、シンガサリ朝が開かれる。シンガサリ朝は1222年、ケン・アロクによって開かれたとされるが、この時期の刻文記録はなく、後世の伝説的記述により知られるのみだ。伝説では、ケン・アロクはブラフマー神が農民の娘に産ませた子で、長じると刀鍛冶ガンドリンを殺してクリス(短刀)を手に入れ、このクリスでシンガサリの領主アムトゥンを殺し、その妻を娶って自身がシンガサリの領主に収まる。ついにはカディリを滅ぼしてジャワの王となるが、娶ったアムトゥンの妻が宿していた、アムトゥンの忘れ形見の子アヌサパティが長じて真実を知る。彼は件のクリスで父の仇であるケン・アロクを殺害し王位につく。しかし今度は、ケン・アロクの側室の子トージャヤが同じクリスでアヌサパティを殺して王位につく。だが彼も、アヌサパティの子ランガウニによって、はたまたクリスで殺される。こうして即位したとされるランガウニからは刻文によって実在が確認できる。ここのくだりはあまりに物語的すぎるとともに、ランガウニより前の3代の王は刻文では存在が確認できないため、実在性についてはなんとも言い難い。後ろ暗い闘争を経て権力の座についたため、同時代資料としては記録が残らず、後に上記のような物語が付与されたのでは、とも考えられる。

 いずれにせよ、このシンガサリ朝はクルタナガラ王のもとで勢力を拡大する。対外拡張策に出たクルタナガラだったが、これは同時期に各方面に膨張していた元との衝突を免れなかった。フビライ=ハンは服属を迫ってきたが、クルタナガラは使者に入れ墨をして送り返したのだった。侮辱に怒ったフビライ=ハンは1292年、大軍を差し向けてきた。しかし、元軍がジャワに来た時、クルタナガラはすで死んでいた。旧クディリ王家の末裔を称するジャヤカトワンの反乱にあい、都は落ち、クルタナガラも殺されたのである。クルタナガラの娘婿のウィジャヤは元軍をそそのかして都を占領した反乱軍を片付けた後、疲弊した元軍を裏切って攻撃し、反逆者と元軍の双方を退けることに成功した。なお、シンガサリ朝の時代を通じて宗教では仏教とヒンドゥー教(シヴァ信仰、インドネシアではシワと呼ぶ)の融合が進み、ジャワ特有のものとなった。クルタナガラ王はヒンドゥー様式と仏教様式の融合した墓廟で、シワであるとともにブッダである存在として祀られた。ジャワの王が特定の宗教を超えた「普遍的真理」として自らを位置づけようとしていたことが伺える。

 

マジャパヒト王国

 元の侵攻を退けたウィジャヤは1293年マジャパヒトに都を定めクルタラージャサとして即位した。彼は元との関係修復に努めるとともに、国内の反乱鎮圧に奔走した。建国後しばらくは政情不安が続いたが1320年代ごろには国情が安定してきた。14世紀半ばには、大宰相ガジャ・マダの元でマジャパヒト王国は最盛期を迎える。彼は第三代のラージャパトニー女王によって「ジャガドラクサナ(世界守護)」に任じられ、第四代のラージャサナガラ王の時代にかけて活躍した。この時代、マジャパヒト王国は米や商業作物の栽培、手工業や商取引による経済的繁栄のもと、積極的な対外拡張に出た。王国の繁栄を伝える『ナーガラクルターガマ』によればその版図はスマトラマレー半島カリマンタン、バリやスラウェシ、モルッカ諸島に及んだという。現在のインドネシアに匹敵するマジャパヒトの領域は、インドネシアの輝かしい栄光の時代として、現代でもしばしば喧伝される。とはいえ、同時代にこれらの範囲のすべてが本当にジャワに服属していた様子はなく、そのまま受け入れることはできないが、これら地域の諸国が、名目的なジャワの宗主権を認めるなどしていた可能性がある。

 

マジャパヒトの政治と宗教

 マジャパヒトの王都には東西二つの王宮があり、王族はそれらのどちらかに居住していた。王朝の始祖クルタラージャサの一人息子、ジャヤナガラは二代王として即位するも子を残さず亡くなったため、クルタラージャサの正室ラージャパトニーが王位を継いだ。しかし、既に出家して俗界を去った身であったため、その王女二人のうち、姉のトリブワナーが摂政となった。このとき、彼女が西王宮、妹のラージャデーウィーが東王宮に住み分けたのが東西王宮の始まりとなった。なお、ラージャパトニーはシンガサリ朝のクルタナガラの娘だったため、東西王宮の始祖となった王女ふたりは母親を通じてシンガサリ朝の血脈を継いでいた。詳細は不明ながら、東西王宮は行政機能を分担しつつ王国を支配していたようだ。

 王国の高官のうち宗教を司る宗務官にはシワ教宗務総監と仏教宗務総監があった。この時代の仏教の韻文詩には「ブッダの本質、シワの本質は一つなり、異なれど一つなり」(ビンネカ・トゥンガル・イカ)という有名な一節があり、シワもブッダもいずれも、一つの普遍的真理の表出の仕方の違いに過ぎないと見ていた。この言葉は現代の他民族国家インドネシアのモットーとなっており、日本語では「多様性のなかの統一」と訳されるが、元々はこのように宗教上の分脈での言葉であった。このように、特定宗教を超えた普遍的真理の存在を想定し、王権をそれになぞらえる思想は、後に伝播して来る唯一神アッラーを崇めるイスラム教と親和性を持ち、その受容を容易なものにしたと思われる。

 さて30年にわたって事実上の指導者として王国を導いたガジャ・マダは1364年に死去した。この時の王は西王宮のトリワブナーの息子ラージャサナガラ王であったが、東王宮はラージャサナガラを正統とは認めつつも、自らの名において布告を出したり、個別に明朝に朝貢したりして、王と同等の権威を主張しだしており、後の争いの萌芽が見られる。両者はそれぞれ明朝から「西王」「東王」と認められ、1401年にはついに明確な対立に至り、ついには内戦に発展した。このとき、第一回遠征の途中でマジャパヒトに滞在していた鄭和の一行が内戦に巻き込まれ、約170名が殺される事件が起きた。王は直ちに明に謝罪の使者を送り、明は金六万両の賠償を命じたが、マジャパヒト側は一万両を払っただけで済ませ、明もそれ以上の追求はしなかった。ここから明がマジャパヒトを重視していたことがわかる。旧説では東西王宮の内戦を機に衰退が進んだとされていたが、実際は1460年代ごろまでは、中国の交易相手として重要な位置を占めていた。

 マジャパヒト衰退の要因は内戦ではなく、交易センターとしての地位の喪失であった。15世紀半ばになると、マレー半島のムラカ王国が台頭して海上交易の中心がうつっていった。明朝の海禁政策によって海上交易における中国の比重が下がるなかで、西方のインドや西アジアイスラーム勢力と結んだムラカにマジャパヒトは対抗できなかった。衰退していったマジャパヒトは1520年代までには滅んだ。この時代以降、東南アジアではイスラーム化が進むが、マジャパヒトを逃れた宮廷人や知識人はバリ島に流れ、イスラーム化以前の、ヒンドゥー・ジャワ色の強い独特なバリ文化を伝承していった。

 

 

次の記事(予定):マレーシア・東南アジアの歴史② イスラーム化とヨーロッパ勢力の進出