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『西晉の武帝 司馬炎』

福原啓郎 『西晉の武帝 司馬炎』 白帝社

 

概略

 タイトルは「司馬炎」個人にフォーカスしているように見えるが、実際の中身は「西晋史」だ。司馬懿の立身からはじまり、永嘉の変による西晋滅亡までを扱う。その過程となる司馬氏の台頭や八王の乱の経緯もまとまっている。歴史的事件の羅列ではなく、当時の風潮や時代の特徴についての考察もあり、面白い内容になっている。西晋にフォーカスした本は希少で、この辺りの歴史に興味があるならばオススメ。絶版本だが『Knowledge worker』でpdf版を購入できる。

 

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西晋」というテーマの意義

 

 この本は昔、どこかの本屋で見かけたことがあったが、その時は買わずに済ませてしまったものだ。魅力的な英雄たちが綺羅星のように登場する三国志は昔から男子を魅了してやまない。かくいう私も小学生ごろから三国志に魅せられ、三国志に関連する本やを読み漁り、ゲームもよく遊んでいた。だから、三国志の物語は、司馬炎という、諸葛亮のライバルとして有名な司馬懿の孫にあたる人物が、魏から禅譲を受け晋皇帝となり、三国のうち最後に残った呉を降して中華を再統一して終わることも、その晋王朝が同族相食む八王の乱を経て短命に終わることも知っていた。本屋でこの本を見かけたのは、恐らく小学生か中学生のときだったが、その時「へえ、随分マイナーな本が出ているもんだな」と感じたのを覚えている。司馬炎は、中華統一を成し遂げた皇帝というと、字面としては立派に見える。だが実態としては、司馬懿とその息子である司馬師司馬昭が天下統一のお膳立てを済ませた状態で、父・司馬昭を継いで最後の仕上げの部分を担った形であり、しかも天下統一後は緊張感をなくしたのか酒色に耽ったり、名君とは程遠いし、後世で人気がある人物でもない。だから、そんな人物をチョイスして人物伝として出版していることを、不思議に感じた。

 しかし、この『西晉の武帝 司馬炎』というタイトルは実際の中身とはかなり違っている。本書は晋王朝の実質的な創始者とも称される司馬懿の立身に始まって、司馬炎の死後、八王の乱を経て最終的に永嘉の乱西晋が滅ぶまでの時代を扱っており、むしろ「西晋史」と言うべき内容になっている。魏晋南北朝時代という意味で、後漢末~北魏あたりまでの時代を扱う本であれば、一般書もそれなりに出版されているし、西晋の直前である三国時代ともなればいくらでも書籍はあるが、こと西晋という時代にフォーカスした一般書籍は、管見の限りほかに見当たらず、この点だけでもこの本の独自性があると思う。

 西晋というのは、恐らくさほど人気がある時代ではない。八王の乱にしても、英雄というべき人物はおらず、延々と身内での内紛が続き、そうしている間に長城以南に内徒している異民族が反旗を翻して勢力を伸長し、八王の乱が終わったときには西晋は既に瀕死の状態であった。このように政治・軍事的にはなんともしまらず、一王朝として見ると、期間も短いし、魅力的と言い難い。

 だが、視野を少し広げて中国史全体の流れからいうと、秦漢と続いてきた漢人による古代帝国の時代から、隋唐の異民族王朝に至る過渡期である魏晋南北朝時代のなかで、異民族による華北支配は西晋の滅亡をもって始まるのであり、ここはひとつの時代の画期といえる。それに、魏~西晋期に育まれた貴族社会は、その後、東晋に引き継がれて南朝の在り方を特色づけ、そうした要素は南北統一を為した隋唐時代にまで影響を与えることになる。

 さらに、西晋が存立していた4世紀は、ユーラシア大陸全体を俯瞰すると、気候の寒冷化が北方の遊牧民族の移動・南下をうながし、所謂「民族の大移動」が起こる中で、世界の東西で古代帝国が「蛮族」の侵入によって滅亡し、遊牧民族が新たな政治的支配者として立ち現れてくる時代だ。中国で西晋の滅亡によって漢人帝国の時代が終わる一方、ヨーロッパでも4~5世紀にかけて、ローマ帝国ゲルマン人の侵入によって崩壊していくことになる。こうしてみると西晋も興味深く、面白い時代なのである。

 

「私権」と「公権」から見る魏晋王朝と社会

 

 本書は単に歴史上の事実を羅列するだけでなく、西晋時代の社会の特徴を「私権」と「公権」をキーワードに分析し、そのあり様が、八王の乱が延々と続いてしまった背景でもあると分析する。前提として、魏の前王朝である後漢は、中央の外戚や宦官が、地方の豪族と結びついて権力を私物化し、民衆からの収奪を強めたことで、不満が爆発して黄巾の乱が起き、滅亡に至った。その後漢に替わる魏や晋には、そうした為政者の私権化を克服し、まっとうな公権を確立することが求められていたといえる。

 乱れた世を正すために求められた公権について、筆者は二つの側面があることを指摘する。一つは、威信によって世を治め、秩序をもたらす峻厳な法家的な面、もうひとつは輿論を重んじ、徳をもって世を治める、儒家的な面だ。前者は皇帝の立場と、後者は貴族層(清流派士大夫)の立場と重なる。魏と晋を比較したとき、魏は前者の権威を、晋は後者の輿論を重視する傾向にある。魏は、混沌とした乱世を生き抜いた奸雄・曹操が事実上築いた王朝であることから、強い権威による峻厳な統治に傾斜するのは自然な成り行きだったが、晋は儒教的価値観を重んずる清流派士大夫層の立場から魏を批判し、帝位禅譲劇を正当化した。例えば魏の二代皇帝、曹叡魏王朝の権威づけを狙って行った、宮殿の造営のような施策を、皇帝の私欲から発するもので、人民を疲弊させるとして反発する輿論の支持を、司馬氏は受けたのだった。司馬氏は河内の名望家の家系だったが、ここでいう「名望家」というのは、儒教的教養をもち、また郷里における声望の高いエリート、という意味合いであり、司馬氏はもともと上記の公権の二つの側面のうち、後者の系譜に属する存在であった。

 だからこそ、司馬師司馬昭は反司馬氏の反乱(毌丘倹・文欽の乱や諸葛誕の乱)を鎮めた際に、首謀者以外は罰さないなど、寛容な振る舞いをアピールして支持を集めようとしたし、初代皇帝司馬炎もまた、寛容な儒教的徳治を志向した。

 しかしながら、当の司馬氏自体が、特に呉を征伐したのちの緊張感の喪失のなかで私権化をしていく。司馬炎自身が、輿論の反対を押し切って、声望高い弟・司馬攸を左遷した事件などはその象徴である。司馬炎死後に、八王の乱で争った外戚や宗室の王たちもまた、誰かが権力を奪取しては私権化し、他の王が公権回復を大義名分として立ち、新たな抗争がはじまるといった流れを何度となく繰り返すことになる。

 こうした、本来公権を確立すべき司馬氏自身が私権化に向かってしまった背景には、より大きな中国社会の風潮の変化があった。漢代の社会は、儒教的上下関係によって秩序だてられた郷村共同体社会をベースに、国家が成り立っていたが、生産力の向上によって階層分化が進み、豪族と貧農の関係が生じるなかで、郷村共同体は解体されていった。ここに天災や戦乱が加わることで、貧農は流民と化す。こうした流民や、長城以南に移住した異民族は、コミュニティの所属を離れて、孤立した個人としての存在となる。こうして共同体から疎外された個人が、その不安から宗教を求めたことで、この時期の中国では道教や仏教の信仰が広まる。また同時に、個人の覚醒が、人間性が豊かに表れた芸術を生み出すようになり貴族社会を彩った。しかし、個人の欲望もまた、儒教的な束縛を離れて露骨にあらわれるようにもなる。たとえば、八王のうち、司馬倫や司馬顒といった人物は、腹心となる部下(孫秀や張方)にそそのかされて乱の拡大に一役買ったが、そうした部下たちは、貴族社会において、通常高い階位に登れない寒門出身で、私的に結びついた宗族諸王を権力の座に押し上げることで、自らの立身出世を果たそうとしたのであった。

 このように、私欲が噴出する時代にあって、本来公権として民を守るべき立場にありながら、自ら私権化して逆に内乱で民を苦しめた西晋王朝が民衆に否定され、永嘉の乱によって滅亡したのは、当然の成り行きであった。

 晋は、魏を民を法家的な苛酷なやり方で統治する王朝と批判し、輿論を重んじる儒教的国家像を実現しようとしたが、この輿論を担うところの貴族・士大夫層自体が、漢代の頃とは大きく変質していた。先述のように後漢のころより階層分化によって引き裂かれつつあった郷村共同体は、黄巾の乱以降の戦乱のなかでさらに解体が進んでいたため、同時に郷村共同体において仰ぎ見られ、またその守護者たらんとする清流派士大夫層、という存在も既に過去のものとなっていた。魏で定められた九品中正は、本来は漢代のように郷村の声望によって人物を登用することを意図した制度であったが、そもそもの郷村社会自体の消失によって、地方からの推薦は機能せず、逆に中央側の意向が人選に強く反映される運用になったことで、有力家門の者が登用されるようになり、貴族社会を形成することになる。そのため魏晋時代の貴族は漢代の士大夫とは異なり郷村とは遊離した存在で、衒学的な議論に耽ったり、奢侈によって貴族社会の内輪での声望を競うようになる。

 短命に終わった西晋にも、占田・課田制や泰始律令など、コンセプトとしては後の隋唐時代にも通ずる政治的所産はあった。しかし、司馬氏自身をも含む為政者層の変質によって、結局西晋後漢以来の課題であった、政治の私権化を克服することができずに滅亡したのである。