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『軍人皇帝のローマ 変貌する元老院と帝国の衰亡』

『軍人皇帝のローマ 変貌する元老院と帝国の衰亡』 講談社選書メチエ 井上文則

 

■本書の概要

 軍人皇帝というのは、3世紀ごろのローマ帝国を導いた、軍人出身の皇帝たちのことである。当時のローマは疫病や外敵の侵入によって、「3世紀の危機」とも呼ばれる、帝国始まって以来の未曾有の危機に直面していた。初代皇帝のアウグストゥス以来、ローマ皇帝元老院議員という貴族層のなかから輩出されてきた。2世紀の五賢帝の時代は、『ローマ帝国衰亡史』を著したギボンによって「人類の最も幸福な時代」とまで評される繁栄を享受していたが、この五賢帝も、元老院議員出の皇帝たちだった。これに対して、3世紀は相次ぐ外敵の攻撃や内乱のなかで、上記の通り軍人出身の皇帝が相次ぐようになるのだが、本書はこの皇帝の出身階層の変化、つまり支配階層の変化の重要性に着目し、その背景と意義を論じている。

 3世紀~8世紀ごろの西洋と中国は、ユーラシアの東西で共時制を持つ歴史の展開を経験したということはよく指摘される。地球規模の寒冷化が北方民族の南下を招き、西洋ではローマ帝国、中国では後漢という古代帝国が滅亡し、その北方民族、つまり西洋ではフランク人、中国では鮮卑にルーツを持つ者が、それぞれフランク王国や隋・唐といった新たな帝国を築いていったのである。

 このように類似した歴史をたどった西洋と中国だが、大きく異なる点もある。それは、支配階層の変遷である。中国においては、後漢の滅亡後に三国時代西晋の短期の統一を経て南北朝時代に至っても、(特に南朝において顕著だが)文人貴族が社会の支配階層であり続けた。武人が政権を奪取しても、結局彼らは文人貴族化していき、政治的な激変のなかでも彼らが担う中国文明は断絶することなく受け継がれていったのである。対照的に、西洋においては、ローマ帝国の滅亡をもって、文人貴族であるところの元老院議員が担った地中海文明は消滅し、中世ヨーロッパ文明との間には断絶が生じたのである。

筆者は、洋の東西でこのような違いな何故生じたのか、という問題意識を出発点として、3世紀のローマ帝国で生じた支配階層の変化を論ずる。3世紀に外敵の侵入などで帝国が危機を迎えるなかで、従来の支配階層であった元老院議員は適切に対処することができず、代わって軍人皇帝と言われる下層出身の軍人あがりの皇帝たちが台頭し、この3世紀の危機を収拾していった。そのなかで、従来はササン朝に敗れ捕虜になったことで低い評価をされるウァレリアヌス帝を、危機に対処するために有効な施策をうち、危機の克服に道筋をつけたとして高く評価している。

タイトルは『軍人皇帝のローマ』だが、筆者は先述の通り東洋との比較や、後の歴史に与えた影響も含めて大きな視野でローマ帝国の3世紀を論じており、非常に面白い内容となっている。

 

五賢帝から軍人皇帝時代へ

 BC27年のアウグストゥス即位にはじまるローマ帝国は、2世紀にはその絶頂期を迎えた。ローマ帝国五賢帝と呼ばれる皇帝たちのもと、統治が安定し、2人目のトラヤヌス帝のもとではダキアを征服して最大版図を現出したのである。ローマ帝国の文明は都市に基盤を置くものであり、帝国の繁栄は都市の繁栄を意味した。ローマをはじめとした帝国内の各都市では上下水道や舗装路、広場や闘技場、神殿などといった公共施設が整備され、洗練された都市文明が栄えていた。こうした各都市は、自治に任されており、富裕者から選出された都市参事会員によって運営されていた。こうした都市の富裕層は、自発的な贈与として、先述したような公共施設や剣闘士競技などのスポンサーとなって、都市文明を支えていた。彼らの贈与行為は、エヴェルジェティズムと呼ばれ、それによって支持を集め選挙を有利に戦うことなども動機のひとつだったが、何よりも死後に残る名声を得て後世に記憶されることが彼らの望みだった。

 一方、ローマの国政を担ったのは元老院議員という貴族層だったが、彼らもまた都市の富裕層であった。彼らは古い歴史を持つ名門家系を誇る者も多かったが、高い乳幼児死亡率と、富裕層の低い出生率によりしばしば断絶したため元老院議員には補充が必要であった。そうした補充は、元老院階級に次ぐ騎士階級と呼ばれる都市富裕層から為されたのであり、つまり国政を担う元老院議員とは都市富裕層の頂点に立つ存在であり、その他の各都市の指導層として活躍する都市参事会員などの都市富裕層と、同質の社会層を成していたと言える。ローマ帝国では政治・文化両面においてこうした都市エリートによって導かれていたのである。

 

しかし、最後の五賢帝マルクス・アウレリウス帝の治世である160年代には、すでに帝国の繁栄に陰りがみられていた。東方のパルティアとの間で生じた戦争には勝利したものの、帰還兵から疫病(天然痘といわれる)がひろがり、また162年からはマルコマンニ人をはじめとしたゲルマン系部族の侵入がはじまった。マルクス・アウレリウス帝の息子、コンモドゥス帝暗殺後には帝位をめぐる内乱が生じ、勝利したセプティミウス・セウェルスによって新たにセウェルス朝がひらかれたが、235年にセウェルス朝最後の皇帝アレクサンデル・セウェルスが暗殺され断絶した。

このようにローマ帝国に暗雲が漂い始めるなかでのアレクサンデル帝暗殺後に、軍団が担いで皇帝に即位したマクシミヌスが最初の軍人皇帝である。彼は元老院議員ではなく、辺境の属州出身で軍務キャリアを積んできた人物だった。騎士階級ではあったようだが、それでも、辺境出身の軍人あがりというのは、元老院議員から見れば得体のしれぬ出自でしかなく、そんな人物が帝位についたことは衝撃的だった。このマクシミヌス帝以降、帝国は各地の軍団が自軍の指揮官を皇帝に担いで僭称し、内乱と短命な皇帝が続く混乱期を迎える。これがいわゆる軍人皇帝時代である。

 

■軍人皇帝時代の混乱

 出自の低いマクシミヌスの即位は元老院には快く思われなかった。マクシミヌス側も出自の低さに負い目もあってか、慣習に逆らい元老院のあるローマには入らず、辺境での対外戦争を継続した。そんななか、238年に元老院議員であるゴルディアヌス1世が息子のゴルディアヌス2世とともに北アフリカで帝位を名乗ると、マクシミヌスをよく思っていなかった元老院もそれを承認した。しかし、ゴルディアヌス親子はマクシミヌス側についたヌミディア総督に攻められ1月足らずで滅亡する。元老院が叛いたことに怒ったマクシミヌスはイタリアに進撃していった。元老院側は自らのなかからバルビヌスとプピエヌスを皇帝に擁立してマクシミヌスに対抗し、またゴルディアヌス2世の息子、ゴルディアヌス3世も副帝として承認された。元老院はイタリアの諸都市を掌握して防備を固めていたため、マクシミヌスは苦戦し、戦役が長引くなかで、配下の軍団が不満を高めて暴動を起こし、共同帝としていた息子ともども殺害された。こうして元老院が勝利したものの、バルビヌスとプピエヌスも近衛兵の暴動によって間もなく殺害されてしまい、結局13歳のゴルディアヌス3世のみがこの238年の内乱を生き残った。

 当時、東方では224年にパルティアに代わったササン朝が西方に向けて勢力を伸ばしていた。ゴルディアヌス3世は、対ササン朝防衛のために親征を行うが、243年に大敗し、自身も負傷し、それがもとで没した。補佐役ので騎士身分出身のフィリップスが後を引き継いで皇帝に即位し、敗軍をまとめ撤退したが、ササン朝に対しては、莫大な賠償金を払い、アルメニアの宗主権を放棄するなど不利な条件で講和せざるを得なかった。フィリップスはローマに帰還したが、248年に今度はゴート人がドナウ川を越えてローマ領に侵入してバルカンを荒らした。これに対処するために、元老院議員のデキウスに軍を率いさせて派遣したが、その軍がデキウスを皇帝に担いでしまい、戦いに敗れたフィリップスは殺害された。この時期、ゴート人の侵入は断続的に継続しており、250年にも再度クニウァという王に率いられてバルカンに侵攻した。デキウスはこれと戦ったが、251年に大敗して息子とともに戦死した。

 代わって帝位についたのは下モエシア総督として対ゴート戦をデキウスとともに戦っていた元老院議員のトレボニアヌス・ガルスだった。翌年252年にササン朝のシャープール1世が侵攻を再開し、ローマ軍を破ってシリアに侵入するとアンティオキアなど大都市が次々に陥落した。ガルスはこれに全く対処しなかったため、現地ではエメサの神官、ウラニウス・アントニヌスが皇帝を称して自営軍を組織してササン朝を撃退した。また、隊商都パルミラの支配者オダエナトゥスが、これまた自衛軍を率いて退却するシャープール1世を追撃した。翌253年、ドナウ川流域でゴート人を撃退したことで配下の支持を得たアエミリアヌスという総督が帝位を称して反乱を起こした。ガルスはラエティア(現代のスイス東部からオーストリア西部)方面で軍を率いるウァレリアヌスを救援に呼び寄せようとしたが間に合わず、アエミリアヌスに敗れ殺害された。しかしそのアエミリアヌスも、ガルスに呼ばれ進撃してきたウァレリアヌスに倒されたのだった。

 

■混乱の要因

 このように238年~253年のわずか15年の間に、数多くの皇帝が立っては対外戦争や内乱で命を落としていった。皇帝たちは直接・間接的に外敵の攻撃によって倒されている。直接というのは、ゴルディアヌス3世、デキウスのように実際に戦死しているものだが、間接というのは、アエミリアヌスがガルスを倒したように、対外戦で勝利した指揮官が軍に担がれて帝位を称して正統な皇帝を倒してしまうことを言う。

 このような事態を招いた大きな要因は2つある。1つは元老院議員をはじめとするローマ指導層が軍事的に無能だったことと、2つめは中央軍が弱体だったことである。

 1つめの元老院議員の軍事的無能の要因は以下のようなものだ。元老院議員は公職序列(クラスス・ホノルム)と呼ばれる、パターン化された公職キャリアを経て、徐々に昇進していった。そのなかには軍務も含まれており、元老院議員は軍事職と行政職の双方を経験していくことが想定されていた。また元老院議員が就任する属州総督は、属州に軍団が駐屯する場合にはその指揮官も兼ねており、軍権と行政権は分離されていなかったため、そうしたポストに就任することは軍司令官となる事を意味した。彼らは20代前半の数年間を見習い将校として、地方で軍務についた後はしばらく行政職を経験し、30代で軍団司令官、あるいは1個軍団駐屯属州の総督となることができた。さらに40代では複数軍団が駐屯する属州の総督ともなって、さらなる大軍を率いる立場にもなりえた。つまり元老院議員は20代で数年の軍務を経験しただけで、次に軍事職に就く際にはいきなり1個軍団(約5000人)を率いる立場になったのであり、ローマ軍はアマチュア指揮官に率いられていたということになる。しかもこれに加えて、帝国の安定のなかで元老院階級は文人化し、軍務を忌避するようになっていた。そのため、家柄が良い者は、20代の見習い将校キャリアや、1個軍団長といったキャリアをスキップして、その上位の役職につくこともあったため、尚の事ローマ軍の指揮官たちの軍務経験は乏しいものとなった。外敵に敗れた、ゴルディアヌス3世やデキウスにしても軍務経験には乏しかったことが敗因としては考えられる。ローマが平和であるうちには、軍事の素人が指揮官であっても大きな問題はなかったが、対外戦争が頻発する時代にあっては大きな問題になっていた。

 また2つめの理由の中央軍の弱体については、背景として共和制末期以来、イタリアには軍団を置かないという慣習があった。初代皇帝アウグストゥスは、自らの権力基盤を固める過程で、実際には独裁を推進しつつも表面的にはむしろ共和制の復活を演出した。その一環としてアウグストゥスは従来の伝統を踏襲して、軍隊は辺境地帯にのみ配備し、イタリアには軍隊を置かなかった。よって、首都ローマの皇帝の下には、4500人程度の近衛兵のほか、首都警備隊などを含めて総勢1万人程度の兵力しかなかった。軍事力をバックに権力を掌握したセウェルス帝は、イタリアに新たに軍団を配備し、近衛軍も拡充したため、皇帝の兵力は2万程度にまで増えたが、それでも属州全体で30万人の兵力が配備されていたことからすると相対的には弱体で、しばしば地方で担がれて皇帝を称した反乱者に、ローマにいる正統な皇帝が敗れる結果につながった。

 

■ウァレリアヌスの改革

 253年にアエミリアヌスを倒して皇帝となったウァレリアヌスは、一般的にササン朝のシャープール1世との戦いに敗れて捕虜となったことで有名である。しかし、そのような不名誉なイメージに反して、本書はウァレリアヌスを、この時代のローマが危機から脱するのに必要な改革を行ったとして高く評価している。その改革とは具体的に以下の3つである。

  • 分担統治の導入
  • 能力主義的な人材登用
  • 中央機動軍の創設

 

まず、分担統治についてだが、ウァレリアヌスは即位すると息子のガリエヌスを共同帝として、帝国の統治を東西で分担した。単純に、ゲルマン人ササン朝が各方面から攻め寄せてくるのを、一人の皇帝で防ぎきることが困難であったのに加えて、238年以来の混乱期のなかでは、皇帝が不在の戦線において、軍隊が指揮官を皇帝に担ぐことが頻発し、簒奪の温床ともなっていた。ウァレリアヌスは、帝国の統治を分担することで、効率的に外敵からローマを防衛するとともに、皇帝不在の戦線を残さないことで、軍隊による皇帝擁立を未然に防ごうとしたのである。こうして親子は254年にはローマを離れ、ウァレリアヌスは東方へ、ガリエヌスはライン川方面に向かい、それぞれ外敵に対処したのだった。後の時代のディオクレティアヌスによるテトラルキア(四帝分治制)は有名だが、ウァレリアヌスの試みは、これを先取りしたものと言える。ウァレリアヌス以前にも、共同帝を置いた例はいくつかあるが、帝国領土を分担して統治するという発想ではなく、ウァレリアヌスの施策は画期的なものだった。

 次の能力主義的な人材登用についてだが、ウァレリアヌスはそれまでの、重要ポストには元老院議員を充てるという帝国の慣習を放棄して、出身身分に関わらず能力のある者を重要ポストにあてた。例えば、先に述べたガルス治世のシャープール1世との戦のなかで功をあげた、パルミラの指導者オダエナトゥスを、ウァレリアヌスは1個軍団を擁する重要属州、シリア・フォエオキアの総督に任じた。オダエナトゥスは251年に元老院身分を与えられていたとはいえ、公職序列で求められるようなキャリアは積んできておらず、このような抜擢は異例であった。そのほかにも、自身の側近である近衛長官に、ゴート人撃退に功のあったスッケシアヌスという地方軍の指揮官を登用したり、本来元老院議員が充てられるべき属州総督のポストに騎士身分の人物を用いるなどしている。西方の統治にあたったガリエヌスも父と同様に身分にとらわれずに登用した有能な人物たちで幕僚を形成して、外的との戦いにあたっていた。一般的に、ガリエヌスは、父がササン朝に敗れたあとの単独統治期に、勅令によって軍事職と行政職のキャリアを分離し、元老院議員を軍事職から排除したと言われている。しかし、実際にはウァレリアヌスとガリエヌスの共同統治期からすでに出自や経歴に囚われない人材登用が進み、元老院議員は軍事職から姿を消していっていたのである。

 最後に中央機動軍の創設である。ウァレリアヌスは東方で黒海沿岸を襲撃してくるゴート人や、ササン朝に対処し、ガリエヌスも西方でゲルマン系民族に対していた。そのため2人とも首都ローマには不在がちで、恒常的に前線に近い箇所に留まり軍を率いていた。従来、ローマ帝国の軍隊は基本的に辺境防衛のために国境沿いに駐屯しており、遠征などに際しては、それらの常設の軍隊から一部の兵力を供出して遠征軍を編成し、戦役が終われば解散して元の部隊に戻っていた。しかし、皇帝が長期間にわたって辺境で各地を転戦しつつ防衛にあたるとなると、皇帝のもとに常設の機動軍が必要になる。またこの中央機動軍の創設に際しては、騎兵部隊の比重も高まったと思われる。この時期から、史料には騎兵長官や騎兵部隊の活躍がしばしば表れるようになる。従来のローマ軍は重層歩兵を中心とし、騎兵は補助的な役割に留まっていたが、恐らくこの時期から、帝国の各所に侵入する外敵に迅速に対処するために、機動力のある騎兵の役割が大きくなっていたのだと思われる。後にコンスタンティヌスはコミタテンセスという野戦機動軍を置き、そこでも歩兵長官と騎兵長官が並立されたが、ガリエヌスの中央機動軍はこれの先駆的な試みだったと言える。

 

 このように各種改革を行ったウァレリアヌス自身は、260年にシャープール1世との戦いに敗れ、捕虜となってしまう。その後の消息は知れないが、シャープール1世によって屈辱を味あわされた挙句、殺されたとも言われる。しかし、彼が行った諸改革は時宜にかなったもので、実際にこれ以後の時代、ウァレリアヌスが推し進めた方針がさらに徹底されていくことになる。

 

 

■イリュリア人皇帝の時代

 こうしたウァレリアヌスの諸改革は、ローマに迫る危機を克服するためのものだったが、同時にローマの支配階層の変化をも引き起こした。先述の通り、ウァレリアヌスとガリエヌスは中央機動軍を常設化しローマを離れて帝国の防衛にあたっていたため、その軍人たちと日々接する一方で、元老院との関係は希薄化した。そうした環境も、皇帝のそばにいる軍人たちが皇帝の側近や属州総督といった高官に抜擢されやすい環境を形作っていた。

 さて、ウァレリアヌスが260年に捕囚の身となると、帝国は混乱に陥り帝位僭称が相次いだ。ウァレリアヌスの配下で騎士身分だったマクリアヌスは、敗軍をまとめてその主導権を握ると二人の息子を皇帝に選出した。しかし、マクリアヌスとその長男はガリエヌスとの対決のため西方に向かったが、ガリエヌス配下のアウレオルスに敗れた。次男は東方に残っていたが、これもまたガリエヌスの命を受けたパルミラのオダエナトゥスに滅ぼされた。オダエナトゥスはこの功績によって「全東方の司令官」に任じられ、これによってガリエヌスは東方の混乱を収拾した。

 その一方、ガリアではポストゥムスという人物が皇帝を称し、ガリアに留まらず、ブリタニアヒスパニアからも支持を受けて、これら領域は「ガリア帝国」としてガリエヌスの支配政府から離脱した。ポストゥムスの出自ははっきりしないが、おそらくは当時のライン軍団の指揮官であった。

 こうして、ウァレリアヌス帝捕囚後のローマ帝国は、正統帝ガリエヌス、その宗主権を認めつつも東方を支配するオダエナトゥス、独立したガリア帝国のポストゥムスで3分されることになった。これは結果的には分担統治と同じ役割を果たし、ガリエヌスは267年まで比較的平穏な治世を送ることができた。

 このようにしてガリエヌスの支配領域はローマ帝国の中央部、イタリア、バルカン、北アフリカ、エジプト、小アジアに限定された。その領域内で軍人の供給源となったのはイリュリア地方だった。イリュリアというのは現在でいう旧ユーゴスラヴィアからハンガリー西部にかけてのドナウ川ぞいの地域のことだ。ドナウ川はローマの防衛線であり、イリュリアはまさにローマの前線だった。ローマは防衛線沿いに多くの軍団が配置しており、その兵士は主として現地の人間が供給源となっていた。またローマ軍は防衛線沿いの駐屯地において、ラテン語公用語とし、ローマ式の生活を営んだため、こうした辺境地帯において採用された兵士を通じてローマ化を促進する役割も果たしていた。イリュリクムは軍事的に重要な土地で、多くの軍が配備されていたが、元老院議員はほとんど輩出しなかった。多くの場合、元老院議員はブドウやオリーブ農地の大土地所有によって収入を得ていたのであり、気候風土がそれに適しないイリュリクムではこうした富裕層が成長しなかったのである。また、軍団が多く配備され兵士の口が多かったため、自作農の次男三男は軍に入り、兵士として給金を得て家族に送ることができ、中小自作農が没落しなかったのも、大土地所有が広まらなかったことの一因である。イリュリクムはこのような土地柄ゆえ、その人々は勇猛だが粗野だとして、中央からは見下されていた。しかし、イリュリクム人たちは軍務の中でローマに敵対するサルマタイ人やゲルマン人と対峙するなかで、ローマ人としての意識を高めていった。また、上記の通り、土地が貧しく豊かではないなかで、ローマ軍の存在によってその経済が成り立っていたことも、彼らとローマ帝国運命共同体であると思わしめ、愛国心を高めたものと思われる。その点、ガリアもまたライン川という帝国の前線に接して、多くの軍団を抱えていた点ではイリュリクムと類似しているが、イリュリクムとは違って土地が豊かで、経済が自活可能であったため、ガリア帝国という形で帝国から分離する結果となった。

 このようなイリュリア人たちが、ガリエヌス支配下の帝国では軍人の供給元となり、中央機動軍の幕僚陣を形成していったのだが、269年、ガリエヌスはこのイリュリア系軍人たちの共謀によって暗殺された。暗殺に至る経緯は不明だが、尚武の気風を持つイリュリア軍人たちと、ギリシア文化を愛好する皇帝のそりが合わなかったとも、イリュリア地方への蛮族の侵攻を放置して、反乱者の鎮圧に向かったことが怒りを買ったとも言われるが、皇帝がひとり元老院から遊離して機動軍の軍人たちに囲まれる環境自体が、軍人たちからすると容易に皇帝を廃して帝位を手に入れられる状況であったこと、常設化された中央機動軍の幹部メンバーが固定化され、謀議を進めやすい環境であったことも、ガリエヌス暗殺の要因だと言える。

 ガリエヌスの後、帝位についたのは、暗殺を主導した幹部の一人クラウディウスだった。その後、アウレリアヌス、タキトゥス、プロブス、カルスと皇帝が続くが、そのうちアウレリアヌス、プロブス、ディオクレティアヌスはイリュリア出身軍人であり、タキトゥスとカルスも、イリュリア軍人出身である可能性がある。彼らは軍務経験が豊かな軍人であり、対外的な戦いに勝利を収めていった。特にアウレリアヌスは、オダエナトゥス死後にゼノビアが継いで、父と異なり反ローマ姿勢を明確にしたパルミラ王国と、ガリア帝国を滅ぼし、ローマの統一を回復した。

四分治制の導入で有名なディオクレティアヌスもまたイリュリア軍人出身の皇帝で、分担統治によって外敵から効率的に帝国を防衛し、3世紀の危機を収拾することに成功した。ディオクレティアヌスは四分治制のほか、元老院議員を重要ポストから排除し、総督を軍権から切り離すなどして、皇帝専制政治化を推し進めたため、後期ローマ帝国を特徴づける改革を行った皇帝として知られているが、先述の通り、帝国の分担統治や、元老院議員の重要ポストからの排除といった内容はウァレリアヌス帝以降推し進められてきたもので、ディオクレティアヌスは最後の軍人皇帝として、こうした政策を極限まで進めたとみることもできる。

 このクラウディウスからディオクレティアヌスに至るまでの時代、ウァレリアヌスが創設したイリュリクム人からなる中央機動軍が帝国政治において重要な役割を果たした。彼らは一度も壊滅することがなく、結束して行動し、皇帝の選出において主導的な役割を果たし、あるいは自らのなかからメンバーを皇帝としたのであった。さらに皇帝だけに限らず、軍司令官や政府高官にも、中央機動軍出身者が就任する例が見られ、混乱する帝国を立て直すのに貢献したのであった。

 

■フランク軍人の台頭と軍人貴族層の成立

 さて、3世紀の危機を乗り越えるのに力を発揮したイリュリア軍人たちだったが、テトラルキア以降、その影響力は減退していく。そもそも、ガリエヌス治世下で軍人たちのなかでイリュリア軍人が支配的な存在となったのは、当時の帝国が正統なローマ皇帝と、パルミラガリアの支配者とで3分され、ガリエヌス支配下の帝国で軍人供給源となる地域がイリュリアだったから、という事情によっていた。帝国の統一が回復し、テトラルキアのもとで4人の皇帝がそれぞれの任地で帝国防衛を担うようになり、各皇帝はそれぞれの担当地域で軍人を募ることになった。テトラルキアディオクレティアヌス帝の退位後に不安定化して内乱に至るが、その勝者となったのは、ガリア方面を担当していたコンスタンティヌスだった。ローマ西北部を担当していた彼の軍の主力はゲルマン系軍人たちであり、コンスタンティヌス帝のもとではこのゲルマン系軍人が主導権を握り、バウト、リキメル、アルボガスト、スティリコといった軍人たちが登場してくることになる。

このようにゲルマン系軍人の台頭が目立つ一方で、コンスタンティヌス自身は元々はイリュリクム方面の軍人の家の出身だった。コンスタンティヌス朝断絶後のウァレンティニアヌスはイリュリクムの、その後のテオドシウスはヒスパニアの軍人家系出身だった。いずれにせよ、コンスタンティヌス朝以後も皇帝のなったのはいずれも軍人出身であり、イリュリア人による独占は崩れつつも、新たに台頭したフランク系も含めて、互いに縁戚関係を結び、軍人貴族層が形成していき、4世紀以降のローマでの主導権を握った。

 

元老院復権

 このように軍人貴族が帝国の実権を握る一方で、元老院も変質を遂げていった。ディオクレティアヌス元老院議員を殆ど用いなかったのに対して、コンスタンティヌス元老院復権を進めた。しかし、これはそのまま旧来の元老院議員たちの復権を意味したわけではなかった。彼らは元老院議員を大幅に増員し、騎士階級や都市参事会員を元老院に取り立てたのであった。コンスタンティヌスが率いたのは先述の通り、フランク人らからなる軍であって、ディオクレティアヌスまでのイリュリア人皇帝と異なり、自らの出身母体で支持基盤となるイリュリア人軍人による中央機動軍を持たなかった。そのため自らの権力基盤を固めるため、旧来の元老院議員も含めて、富裕層を自らの支持基盤の引き入れるとともに、彼らの関心を再度帝国統治に向けさせる狙いがあった。コンスタンティヌスは新都コンスタンティノープルを創建するとともに、そちらにも元老院を設置し、新たに元老院議員を登用した。こうして復権した元老院ではあったが、一方で軍事職からの排除は継続され、彼らはあくまで行政職にしか登用されなかった。その意味では、元老院復権したとはいえ、従来と同じ姿に戻った訳ではなかった。

 さらに、元老院議員が就くべき役職が増加した後、そうした役職を元老院議員が独占したのではなく、逆にそうした役職に就任した者に元老院議員身分が与えられるようになっていった。後の時代には、軍事職においても、高官となれば元老院議員身分が付与されるようになった。つまり、元老院議員とは、行政・軍事のキャリアにおいて昇進した結果得られるものとなったのであり、これは旧来の貴族的な元老院議員とはかなり異なる存在であると言えよう。

 

元老院貴族の失墜とローマ文明の消滅                             

 本書では、こうしたコンスタンティヌス朝下で登用された新たな元老院議員から区別する意味合いで、それまでの旧来の元老院議員を「元老院貴族」と呼称している。元老院貴族は、主として帝国西部に所領を持つ大土地所有者で、その気風は多分に文人的な知的エリートであって、煩わしい公務から退き、自分の所領で文筆に専念することを夢見ていた。彼らのような富裕者は、かつては各種公共事業やイベントに必要な費用を提供するエヴェルジェティズムを盛んに行い、社会に貢献するとともに、人々の尊敬を受ける立場であった。しかし、そうした活動は3世紀以降低調となってしまう。その理由として本書は、元老院身分の取得が容易になったことで、その特権獲得を目指す富裕層の関心が、自らの属す都市ではなく帝国政府に向かうようになったことと、心性が変化し、以前のように後世の人々に記憶されることを重視しなくなったことを挙げている。なお筆者が2021年に出版した「シルクロードローマ帝国の興亡」のなかでは、3世紀にはローマのシルクロード交易が各種要因で大幅に後退したことが、ローマ全体を不況に陥れ、元老院貴族の経済状態が悪化したことが、エヴェルジェティズムを停止させたとして論理を補強している。

 いずれにせよ、エヴェルジェティズムをやめ、現実の社会への関心と関与を失った元老院貴族は、もはや人々の尊敬を集める存在でもなく、影響力・指導力を低下させていた。3世紀以降台頭してきた軍人貴族は、こうした元老院貴族を等閑視し、彼らと縁戚関係を結ぶこともなかった。

中国南北朝では、軍事力をもって政権を得た為政者たちが、結局は文人貴族たちと縁戚関係を取り結び、自らも貴族化していったことで、中国では政治的な混乱にも関わらず、文人貴族と彼らが担った中華文明が断絶することなく命脈を保った。しかしながらローマでは元老院貴族は、社会からも、新たな支配者層である軍人貴族層からも遊離した存在になっており、西ローマ帝国の崩壊をもって、元老院貴族たちも、彼らが担うローマ文明も姿を消したのであった。

 

■感想:ヨーロッパと中国における文明の継承についての考察

 本書は概要の欄でも書いたように、軍人皇帝という一見限られたテーマを扱っているように見えて、3世紀以降のローマ帝国の変質と、ヨーロッパと中国における、古代文明の継承という大きなテーマを持つ、非常に面白い内容になっている。

 冒頭に書いた通り、地球規模の気候寒冷化のなかで、ヨーロッパと中国の双方において、古代帝国が北方の異民族によって滅ぼされるという類似した歴史過程のなかで、中国では中華文明が生き永らえたのに対して、何故ヨーロッパではローマの古典文明が断絶したのか、という点が本書の関心の出発点である。ブログ主は以前、川勝義雄の『魏晋南北朝』(講談社学術文庫)を読んだことがある。まさにこの同時代の中国史を扱った本だが、川勝も同様の関心を著書のなかであらわしていたことを覚えている。そして、本書の筆者である井上もまた、冒頭のなかで川勝の著書を本書のなかで引用して、この問題設定についての導入としている。

本書のなかで、井上は文明の担い手である知的エリート層に着目し、ローマにおいては3世紀の動乱のなかでの支配者層の変化によって、旧来の支配者層で、知的エリート層たる元老院議員が、軍人皇帝たちによってとって変わられ、影響力を失っていったことが帝国とともに古典文明も滅んだ理由と分析した。

 井上は、元老院貴族がエヴェルジェティズムを放棄し、社会的な尊敬を受けなくなったことで、軍人貴族も彼らを軽視して縁戚関係が形成されなかったため、中国と違って文人貴族が実権を握った為政者たちを同化できなかった理由としており興味深い。また本書では元老院貴族がエヴェルジェティズムを放棄してしまった理由として、元老院貴族の関心の対象と心性の変化が挙げられたが、井上はこの点の分析について、本書のあと2021年に出した『シルクロードローマ帝国の興亡』のなかで、シルクロード交易の沈滞によって、ローマ全体の財政が悪化し、同時に元老院貴族の経済状態も悪化したことがエヴェルジェティズムの停止につながったという仮説を提起している。(詳しい内容は別記事にてまとめようと思う)こちらも実に面白い内容なのでぜひ読んでみて欲しい。

さて、本書の内容を受けて、比較対象である中国について考えてみると、中国においても文人貴族たちは魏晋期において清談に耽って実際の政治への関心を失っていたし、あるいは南朝の梁では、軍を指揮する立場にありながら文人貴族化したある皇族が、馬を見て「これは虎じゃ」と言って怖れたエピソードが知られるなど、少なくとも現実の政治にあたるべき為政者としては時代とともに劣化していった点では、元老院貴族と類似しているようにも思える。そのため、逆になぜ中国では文人たちが一貫して支配者層に留まり、中華文明が求心力を保持できたのかという点もまた興味深い疑問だと思うが、それについてはまた時間があるときに別記事にて自分の考えをまとめてみたいと思う。

マレーシア・東南アジアの歴史① 島嶼部東南アジア史の概観 / イスラーム化以前の東南アジア

はじめに

 私は縁あっていま、マレーシアに住んでいる。折角、異国の地に住むのだから、その土地と人々の歴史を知りたいと思い、何冊かの本を読んでマレーシアの歴史について調べてみた。その内容を自分自身の忘備録、また何かのきっかけでマレーシアに興味を持った人の役に立てばと思い、blogにまとめておこうと思い立って、この記事を書くことにした。

参考にしたのは以下の本

 池端雪浦 編「東南アジア史Ⅱ 島嶼部」山川出版社

 川中豪/川村晃一 編著「教養の東南アジア現代史」ミネルヴァ書房

 岩倉育夫「物語 シンガポールの歴史」中公新書

 

今回の記事はほぼ「東南アジア史Ⅱ」による。

また、少しずつ加筆していくため、今後参考図書が増える可能性もある。

 

マレーシアという国のはじまり

 マレーシアというのは立憲君主制の国で国王がいる。しかし国王といっても日本の皇室やイギリスのウィンザー朝とはイメージが異なる。マレーシア国王はひとつの王統で代々受け継がれるのではなく、5年おきの選挙で決まるのである。マレーシアの州のうち、9つの州には世襲の君主(スルターン)がいて、これらの君主が互選で国王を選出する。互選とはいうが、慣習上輪番制になっており、これら9州の君主が順番に国王を務める、というのがマレーシアの王政だ。輪番制の国王というのは日本人からすると不思議で物珍しく思えるが、このような仕組みにはマレーシアという国の成り立ちが関係している。

 この国の歴史について考える際、今のマレーシアという国民国家はイギリスの植民地だった英領マラヤが元になっているという点を押さえておく必要がある。イギリスが植民地として支配するまで、現在マレーシアと呼ばれる領域には、多くの王国が分立していて、それを統一的にに支配するような権力はなかったのである。イギリスが、効率的な植民地統治を行うために一元的な行政機構を設けたのが、いまのマレーシアに直接的につながる国家の始まりなのだ。だから、マレーシアには今でも9つの州にスルタンがいる一方で、単独で国王を代々引き継ぐような家系は存在しない。しかし統一的な権力がなかった一方で、マレー半島は、今のインドネシアに含まれる地域とも歴史的なつながりが深かった。かつてこれらのエリアは交易で栄え、同じ海洋東南アジア世界という同一の歴史空間として展開を見せてきた。しかし、イギリスとオランダが東南アジアにおいて勢力を競い、最終的には1824年にマラッカ海峡で互いの勢力圏を区切ったため、両者はマレーシアとインドネシアという別の国として歴史を歩むことになった。だから、特に植民地化以前の歴史を語るときは、今のマレーシアの範囲よりも広い範囲が対象となる。

 

島嶼部東南アジア史の概観

風土と社会の特徴

 まずはマレーシアが属する島嶼部東南アジア全般の歴史を概観しておきたい。東南アジアは一般に、タイ、ベトナムミャンマーカンボジアラオスといった大陸部と、マレー半島や、インドネシア、フィリピンといった島嶼部で分けられる。前者はメコン河や紅河などの複数の大河と、その流域の平野部を持ち、またモンスーン気候に属するため稲作に適しており、農業に基盤を置いた社会が成立した。一方でマレーシアが属する島嶼部は、年中湿潤で熱帯雨林に覆われており大規模な農業には向かない。熱帯雨林は豊かな森の恵みをもたらすものの、日光が地面まで届かず年中高温湿潤なため病原菌の温床であり、人間には厳しい環境だ。このような熱帯雨林地域において、人々は森林の密度が下がる高地か、森が切れて日や風の通る海岸や河川沿いといった、限られたエリアに居住し、森林産物や水産物の採集と交易を基盤とする商業的な社会が成立した。

 この地域の住人にとって、森や海の産物の採集、生産、流通は彼ら自身の生活の糧であったが、同時にこの地は古くから「海のシルクロード」と呼ばれる世界交易路の通り道であった。現在も地政学上の焦点としてしばしば話題となるマラッカ海峡は、古くより東の南シナ海やジャワ海と、西のベンガル湾をつなぐ交通の要衝であった。特に蒸気船が出現する以前の遠距離交易はモンスーンの風と海流に依存しており、商人たちは、モンスーンに乗ってマラッカ海峡まで来た後は、季節が移って逆向きのモンスーンが吹くまではここで風待ちをして帰路についたのだった。また、島嶼部東南アジアはただ交易の通り道であったわけではなく、それ自体が香辛料など、世界で珍重される産物を生み出す地でもあり、そうした物の生産や流通を扱う地元の人々の経済活動と、外来者との交易活動が重なり合い、多様な港市を結びつけるネットワークが発展した。中国、インド、ヨーロッパといった様々な地域からの人や物がこのネットワーク上を行きかい、コスモポリタンな世界が形成されたのがこのこの地域の大きな特徴であり、他民族国家マレーシアの源流もここにある。

 

植民地化と国民国家

 このように交易の海として栄えた島嶼部東南アジアだが、19世紀に大きな変化を迎える。15~17世紀は交易の時代とも言われ、特に東南アジア交易が特に繁栄した。この時期ヨーロッパの国々が交易の利益を求めて東南アジアへ進出してきた。彼らの影響によって東南アジアの交易は遠くヨーロッパや新大陸ともつながり、更なる活況を呈す。一方、ポルトガルやオランダは交易の独占を試みたが、成功は一時で、東南アジアの海を支配するには至らなかった。マラッカ海峡を中心としたエリアでは在地の様々な港市国家が、ときにヨーロッパの勢力と結んだり敵対しつつ盛衰を繰り返すが、総体として交易の海としての活況が衰えることはなかった。

 しかし、17世紀末ごろから、香辛料価格の下落や、清朝の遷界令、江戸幕府鎖国などを背景に東南アジア交易は勢いを減じ、それまで貿易特権の獲得を主眼としていたヨーロッパ諸国は、次第に陸の資源を求めて領土拡大を志向するようになる。こうして19世紀には島嶼部東南アジアはイギリス、オランダ、スペインの植民地として支配されるに至った。彼らの支配のもとで東南アジアはゴムや錫などといった内陸部の一時産品を世界市場に供給する役割を負うことになり、そうした商品作物の栽培や、資源開発に必要な労働力として、インドや中国からの移民が大量に投下された。宗主国は、効率的な植民地経営のために、法制度や官僚機構、通信や教育といった統治機構を整備した。多数の港市が結びつく多元的な世界が、ヨーロッパの勢力圏分割にともなって寸断されるとともに、それぞれの内部では一元的な支配構造がもたらされたのであった。こうして誕生した植民地国家では、だが同時に独立を求めるナショナリズムも目覚めることとなり、日本の占領期を挟んで第二次大戦後には、各国がも宗主国から独立を果たす。独立した東南アジアの国々は、基本的に宗主国が築いた国家機構を継承しており、植民地国家を母胎として誕生しつつも、国民国家として自立の道を模索し葛藤することになる。前述のようにマレーシアも、イギリス植民地のマラヤ連邦を母体として戦後独立し、他民族国家としての課題に向き合いつつ今日に至っている。

 

 

イスラーム化以前の東南アジア

 

14世紀以前の東南アジア史研究の特徴

 島嶼部の東南アジア史研究では、当事者による文献資料が14世紀ごろまでは非常に乏しく、中国やインドといった周辺諸国が東南アジアについて言及した資料に依存せざるを得ないという不利な条件にある。例えば中国の史書がいうところの「三仏済」は重要な概念でありながら、何を指しているのか必ずしも明確ではないなど、他者によって著された資料に頼った研究には困難が伴う。そのため、研究者は史書を比較検討したり考古学的資料と合わせて、多角的に歴史を再構成する必要があるが、やはり事実がはっきりせず推定によるしかない部分が多く残っている。

 

東南アジアの交易ルート

 交易を核として歴史が展開する東南アジアだが、紀元前後には既にインドや中国との接点があったことが確認できる。その頃、南インドでつくられていた土器やビーズが東南アジアや中国南部の広州でも多数見つかっており、このことは既にこれらの地域が接点を持っていたことを示している。前2世紀末には前漢武帝ベトナム中部まで進出して日南郡をおいた。中国の使者はここを通じて南インドと往復し、さらにインドやローマ帝国の使者もここを通じて中国に朝貢した。東南アジアの人々は、彼ら自身の生活のために元々近隣地域と海上交易を行っていたが、上記のような遠方を結ぶ海の道は、こうした東南アジア海域内に既にあった近隣との海上ルートを次々に乗り継ぐことで成立していた。

 3世紀ごろの交易ルートは日南郡―扶南―頓遜―インドというもので、これはマレー半島の付け根で一旦陸路をとり、ベンガル湾で再度海に出るものだったが、次第にマラッカ海峡を通じて全て海路を採るルートが台頭し、7世紀ごろには完全にこちらがメインとなる。陸路を挟むより、一気に海路をとる方が余計な荷下ろし、荷積みがない分有利であり、特に運搬する財物が大量で壊れやすいものであれば、尚更その優位性は増す。それでは、何故7世紀にこの交易路の交代が生じたのかというとはっきりしないが、恐らく、この時期にジャワ島の稲作が発展したことで、海域東南アジアの非農業人口を支えるだけの余裕が生まれて商業・交易活動がより活発化したこと、隋唐世界帝国の成立により交易活動が活性化してアラブやペルシアの船の来航が増えるなかで、航海技術が進歩したこと、7世紀はじめの赤土国以降、マラッカ海峡に強力な交易国家が生まれて航海の安全が確保されたことなど、いくつかの条件が揃ったことが、この変化を促したのだと思われる。反対に、これによって交易ルートから外れた扶南は没落した。

 

シュリーヴィジャヤと大乗仏教

 前節で触れた赤土国の位置ははっきりしないが、マレー半島南部からスマトラ周辺に支配を及ぼしていたとされる。この国は短命に終わったが、644年にはスマトラ島南東部のパレンバンのマラユ国が中国に朝貢している。670年ごろからはマレー半島東岸のどこかに位置したシュリーヴィジャヤ(室利仏逝)が強勢となり、682年にはマラユを滅ぼして、パレンバンを自らの都とした。シュリーヴィジャヤはさらにマレー半島西岸のクダも支配下に収め、東のパレンバンと西のクダの二大中心地を拠点としてマラッカ海峡交易を支配した。

 パレンバンで見つかったタラントゥオ碑文は王がシュリークシェートラという園林を造営したことを記しているが、これは「一切衆生がこのうえない正しい覚りをえるように」との王の請願をうけて作られたとされており、大乗仏教色が濃い。しかしながら、別の碑文、トゥラガバトゥ碑は誓忠飲水の儀式について書かれたもので、これは臣民が王に忠誠を誓う証しとして水を飲み、もし誓いに背けば水の呪術によって殺されるとされている。この呪術信仰からは仏教色は見いだせない。この時期、唐の義浄がインドと往復の旅をする途中、パレンバンに逗留している。義浄はパレンバンには多くの僧がおり、その学問や儀式の行い方はインドと全く同じであると記している。本当の意味で宗教を受容すれば、必ずその土着の要素が入り込むものだが、そうした要素がなく、本地と全く同じということは、逆説的にシュリーヴィジャヤにおける仏教が借り物であったことを示唆している。彼らにとって仏教や園林シュリークシェートラは、自らを文明国であると誇示して、交易相手であるインドや中国に対するときに優位に立つための道具に過ぎず、自国内では土着で信仰されている呪術的な世界観が主流なままだったのだろう。

 

シャイレーンドラ朝と「三仏斉」

 シュリーヴィジャヤから中国への朝貢の記録は742年に確認されるのを最後に途絶え、一方で768年からは「訶陵」の朝貢が記録される。訶陵はジャワの王国で、この時期のジャワではシャイレーンドラ朝が強勢であったため、ここで言及された「訶陵」はシャイレーンドラ朝に同定される。シャイレーンドラ朝は仏教国で、「シャイレーンドラ」はサンスクリット語で「山の王」の意である。故地には議論があったが、ジャワで7世紀ごろのセレーンドラ王の碑文が見つかり、これがシャイレーンドラ朝の祖と考えられるため、現在ではジャワ起源説が有力だ。シャイレーンドラ朝は8世紀後半から東南アジアを席捲し、シュリーヴィジャヤを支配したほか、遠くベトナムカンボジアにまで遠征したとの記録もある。しかし、9世紀半ばにサンジャヤ朝(古マタラム王国)と争ってジャワを追われ、スマトラ島方面を支配するのみとなった。

 11世紀の中国資料では「三仏斉」という言葉が出てくる。かつて、三仏斉はシュリーヴィジャヤのことだとされていたが、そうだとすると同時に複数の三仏斉が朝貢していることになるなど矛盾が多いため、現在その説は支持されない。おそらく、三仏斉は一つの国を指すのではなく、マラッカ海峡周辺のマレー半島スマトラ島の交易国家全般を指しているのだと思われる。三仏斉は9世紀のアラブ史料にあらわれる「サーバジュ」に相当する語だが、アラブ史料は「サーバジュの大王が治める国々にはシュリーヴィジャヤ、スマトラ北端部、クダが含まれる」との言及の仕方をしており、シュリーヴィジャヤはサーバジュ=三仏斉の一部とされていることから、これも三仏済=シュリーヴィジャヤを否定している。さらに「サーバジュは」サンスクリット語の「ジャーヴァカ」に相当し、ジャーヴァカは「ジャワの」「ジャワに属する」といった意味合いである。13世紀にマルコ・ポーロはジャワを「大ジャワ」、スマトラを「小ジャワ」と呼んでいるが、これは上記の呼び名を継承したものだ。またアラブ史料でジャワ本島を「ムル・ジャワ」(本当のジャワ)と呼ぶ資料もある。これらを考えあわせると、三仏斉―サーバジュージャーヴァカは「小ジャワ」に相当する語であることが分かる。これは、元々はジャワを本拠としたシャイレーンドラ朝が勢力をスマトラマレー半島にまで広げた後に、本地を失ったことに起因して、シャイレーンドラ朝のジャワ以外の領土(マレー半島スマトラ)が「三仏斉」と呼ばれるようになったのではないかと考えられる。

 960年に中国で宋が建つと、三仏斉諸国もこれに朝貢した。この時期、三仏斉はジャワの攻撃を受けたが、宋の皇帝にとりなしを頼むなどしてこの挑戦を退けた。また1000年代はじめごろの中国とインドの記録を合わせると、この頃にはシャイレーンドラ家がクダで勢力を回復して、宋やインド南部のチョーラ朝と関係を結んでいたことが分かっている。チョーラ朝は一時、クダを占領してマラッカ海峡交易を独占するが、やがて勢力が衰え、再びシャイレーンドラ家と協力を結んでいる。このように、東南アジアの歴史は中国やインドと密接に連関しながら展開した。

 

ジャワの歴史

 ジャワは島嶼部東南アジアにおいて、特殊な位置を占める。この地域は基本的に農業に適さないと述べたが、ジャワだけは例外なのである。ここには活火山があり、噴火と火山灰は熱帯雨林の生成を妨げるとともに、肥沃な土壌をもたらすため、稲作に適している。そのため、ジャワには農業を基盤とした社会が成立した。ジャワは文字資料が乏しい本地域にあって、7世紀以降は多くの刻文資料を遺しており、これらを通じて歴史を再現することができる。

 稲作、特に灌漑には、同一水系のムラとの協力や利害調整を必要とするため、ムラを代表する第一人者である「ラカイ」(兄の意)という地位が生まれた。ラカイは次第に権力者に変質していくとともに、稲作発達による生産能力の向上は非生産人口を増加させ、ラカイを補佐する支配階層も形成する。こうした小規模な権力が3世紀ごろまでに多数形成され、互いに競合するようになった。そのなかで、他のラカイより優位に立つためにインド文化を取り入れる者もあらわれた。こうした多数のラカイの中に、先述したシャイレーンドラ朝や、後にジャワを統一する古マタラム王国のサンジャヤ王の家系もあったと考えられる。

サンジャヤ朝(古マタラム王国

 サンジャヤ王統のピカタンはシャイレーンドラ家の王女プラモーダワルダニーと842年に結婚したが、一説ではボロブドゥールを建設したのはこの王女だとも言われる。はっきりとはしていないが、仏教徒のシャイレーンドラ家とヒンドゥー・シワ教(シヴァ神信仰)のサンジャル王統の結婚は対等に近いもので、この王女にもそうしたことが可能なだけの力はあったようだ。しかし、後にシャイレーンドラのバーラプトラ王子(王女の末弟)がピカタンに戦いを挑んで敗れ、ジャワを逃れる。シャイレーンドラは先述の通り、マラッカ海峡方面で勢力を遺すが、ジャワではこれ以降存在が確認できない。

 928年のものを最後に、中部ジャワには刻文が存在せず、この時代以降の物は東部ジャワからのみ見つかることから、この時期に王権の中心が中部から東部にうつったことが分かる。しかし、中部から東部に中心地がうつったといっても、王統には連続性が確認されており、ここで王朝や支配階層の交代は生じていない。いくつか仮説が挙げられており、一説では火山の噴火とも言われるが、それを積極的に支持する証拠はない。そもそも中部よりも東部の方が、川を通じて容易に海に接続できるため交易に有利なロケーションであり、王権の支配が東部にまで及んだのであれば、そちらに移動するのは、むしろ自然な成り行きで、従来考えられるように中部が放棄されたわけでもないのでは、とする考えもある。

 

カディリ朝・シンガサリ朝

 その後、ジャワの王権は数度の王朝交代を経ている。先述のように990年には三仏斉の覇権に挑戦しているが、失敗に終わっている。このときの王ダルマワンサは、1016年には中部ジャワのラカイの反乱にあって殺され、都も焼かれている。ダルマワンサの娘婿を自称するアイルランガは森に逃れて、1019年に即位を宣言、その後さらに苦闘を経てジャワを再統一した。彼は海に通ずるプランタス川沿いのカディリに都を定め、ジャワはおおいに栄えた。

 このアイルランガとそれに続く諸王の後、刻文の記録がない時代を挟んで、シンガサリ朝が開かれる。シンガサリ朝は1222年、ケン・アロクによって開かれたとされるが、この時期の刻文記録はなく、後世の伝説的記述により知られるのみだ。伝説では、ケン・アロクはブラフマー神が農民の娘に産ませた子で、長じると刀鍛冶ガンドリンを殺してクリス(短刀)を手に入れ、このクリスでシンガサリの領主アムトゥンを殺し、その妻を娶って自身がシンガサリの領主に収まる。ついにはカディリを滅ぼしてジャワの王となるが、娶ったアムトゥンの妻が宿していた、アムトゥンの忘れ形見の子アヌサパティが長じて真実を知る。彼は件のクリスで父の仇であるケン・アロクを殺害し王位につく。しかし今度は、ケン・アロクの側室の子トージャヤが同じクリスでアヌサパティを殺して王位につく。だが彼も、アヌサパティの子ランガウニによって、はたまたクリスで殺される。こうして即位したとされるランガウニからは刻文によって実在が確認できる。ここのくだりはあまりに物語的すぎるとともに、ランガウニより前の3代の王は刻文では存在が確認できないため、実在性についてはなんとも言い難い。後ろ暗い闘争を経て権力の座についたため、同時代資料としては記録が残らず、後に上記のような物語が付与されたのでは、とも考えられる。

 いずれにせよ、このシンガサリ朝はクルタナガラ王のもとで勢力を拡大する。対外拡張策に出たクルタナガラだったが、これは同時期に各方面に膨張していた元との衝突を免れなかった。フビライ=ハンは服属を迫ってきたが、クルタナガラは使者に入れ墨をして送り返したのだった。侮辱に怒ったフビライ=ハンは1292年、大軍を差し向けてきた。しかし、元軍がジャワに来た時、クルタナガラはすで死んでいた。旧クディリ王家の末裔を称するジャヤカトワンの反乱にあい、都は落ち、クルタナガラも殺されたのである。クルタナガラの娘婿のウィジャヤは元軍をそそのかして都を占領した反乱軍を片付けた後、疲弊した元軍を裏切って攻撃し、反逆者と元軍の双方を退けることに成功した。なお、シンガサリ朝の時代を通じて宗教では仏教とヒンドゥー教(シヴァ信仰、インドネシアではシワと呼ぶ)の融合が進み、ジャワ特有のものとなった。クルタナガラ王はヒンドゥー様式と仏教様式の融合した墓廟で、シワであるとともにブッダである存在として祀られた。ジャワの王が特定の宗教を超えた「普遍的真理」として自らを位置づけようとしていたことが伺える。

 

マジャパヒト王国

 元の侵攻を退けたウィジャヤは1293年マジャパヒトに都を定めクルタラージャサとして即位した。彼は元との関係修復に努めるとともに、国内の反乱鎮圧に奔走した。建国後しばらくは政情不安が続いたが1320年代ごろには国情が安定してきた。14世紀半ばには、大宰相ガジャ・マダの元でマジャパヒト王国は最盛期を迎える。彼は第三代のラージャパトニー女王によって「ジャガドラクサナ(世界守護)」に任じられ、第四代のラージャサナガラ王の時代にかけて活躍した。この時代、マジャパヒト王国は米や商業作物の栽培、手工業や商取引による経済的繁栄のもと、積極的な対外拡張に出た。王国の繁栄を伝える『ナーガラクルターガマ』によればその版図はスマトラマレー半島カリマンタン、バリやスラウェシ、モルッカ諸島に及んだという。現在のインドネシアに匹敵するマジャパヒトの領域は、インドネシアの輝かしい栄光の時代として、現代でもしばしば喧伝される。とはいえ、同時代にこれらの範囲のすべてが本当にジャワに服属していた様子はなく、そのまま受け入れることはできないが、これら地域の諸国が、名目的なジャワの宗主権を認めるなどしていた可能性がある。

 

マジャパヒトの政治と宗教

 マジャパヒトの王都には東西二つの王宮があり、王族はそれらのどちらかに居住していた。王朝の始祖クルタラージャサの一人息子、ジャヤナガラは二代王として即位するも子を残さず亡くなったため、クルタラージャサの正室ラージャパトニーが王位を継いだ。しかし、既に出家して俗界を去った身であったため、その王女二人のうち、姉のトリブワナーが摂政となった。このとき、彼女が西王宮、妹のラージャデーウィーが東王宮に住み分けたのが東西王宮の始まりとなった。なお、ラージャパトニーはシンガサリ朝のクルタナガラの娘だったため、東西王宮の始祖となった王女ふたりは母親を通じてシンガサリ朝の血脈を継いでいた。詳細は不明ながら、東西王宮は行政機能を分担しつつ王国を支配していたようだ。

 王国の高官のうち宗教を司る宗務官にはシワ教宗務総監と仏教宗務総監があった。この時代の仏教の韻文詩には「ブッダの本質、シワの本質は一つなり、異なれど一つなり」(ビンネカ・トゥンガル・イカ)という有名な一節があり、シワもブッダもいずれも、一つの普遍的真理の表出の仕方の違いに過ぎないと見ていた。この言葉は現代の他民族国家インドネシアのモットーとなっており、日本語では「多様性のなかの統一」と訳されるが、元々はこのように宗教上の分脈での言葉であった。このように、特定宗教を超えた普遍的真理の存在を想定し、王権をそれになぞらえる思想は、後に伝播して来る唯一神アッラーを崇めるイスラム教と親和性を持ち、その受容を容易なものにしたと思われる。

 さて30年にわたって事実上の指導者として王国を導いたガジャ・マダは1364年に死去した。この時の王は西王宮のトリワブナーの息子ラージャサナガラ王であったが、東王宮はラージャサナガラを正統とは認めつつも、自らの名において布告を出したり、個別に明朝に朝貢したりして、王と同等の権威を主張しだしており、後の争いの萌芽が見られる。両者はそれぞれ明朝から「西王」「東王」と認められ、1401年にはついに明確な対立に至り、ついには内戦に発展した。このとき、第一回遠征の途中でマジャパヒトに滞在していた鄭和の一行が内戦に巻き込まれ、約170名が殺される事件が起きた。王は直ちに明に謝罪の使者を送り、明は金六万両の賠償を命じたが、マジャパヒト側は一万両を払っただけで済ませ、明もそれ以上の追求はしなかった。ここから明がマジャパヒトを重視していたことがわかる。旧説では東西王宮の内戦を機に衰退が進んだとされていたが、実際は1460年代ごろまでは、中国の交易相手として重要な位置を占めていた。

 マジャパヒト衰退の要因は内戦ではなく、交易センターとしての地位の喪失であった。15世紀半ばになると、マレー半島のムラカ王国が台頭して海上交易の中心がうつっていった。明朝の海禁政策によって海上交易における中国の比重が下がるなかで、西方のインドや西アジアイスラーム勢力と結んだムラカにマジャパヒトは対抗できなかった。衰退していったマジャパヒトは1520年代までには滅んだ。この時代以降、東南アジアではイスラーム化が進むが、マジャパヒトを逃れた宮廷人や知識人はバリ島に流れ、イスラーム化以前の、ヒンドゥー・ジャワ色の強い独特なバリ文化を伝承していった。

 

 

次の記事(予定):マレーシア・東南アジアの歴史② イスラーム化とヨーロッパ勢力の進出

『西晉の武帝 司馬炎』

福原啓郎 『西晉の武帝 司馬炎』 白帝社

 

概略

 タイトルは「司馬炎」個人にフォーカスしているように見えるが、実際の中身は「西晋史」だ。司馬懿の立身からはじまり、永嘉の変による西晋滅亡までを扱う。その過程となる司馬氏の台頭や八王の乱の経緯もまとまっている。歴史的事件の羅列ではなく、当時の風潮や時代の特徴についての考察もあり、面白い内容になっている。西晋にフォーカスした本は希少で、この辺りの歴史に興味があるならばオススメ。絶版本だが『Knowledge worker』でpdf版を購入できる。

 

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西晋」というテーマの意義

 

 この本は昔、どこかの本屋で見かけたことがあったが、その時は買わずに済ませてしまったものだ。魅力的な英雄たちが綺羅星のように登場する三国志は昔から男子を魅了してやまない。かくいう私も小学生ごろから三国志に魅せられ、三国志に関連する本やを読み漁り、ゲームもよく遊んでいた。だから、三国志の物語は、司馬炎という、諸葛亮のライバルとして有名な司馬懿の孫にあたる人物が、魏から禅譲を受け晋皇帝となり、三国のうち最後に残った呉を降して中華を再統一して終わることも、その晋王朝が同族相食む八王の乱を経て短命に終わることも知っていた。本屋でこの本を見かけたのは、恐らく小学生か中学生のときだったが、その時「へえ、随分マイナーな本が出ているもんだな」と感じたのを覚えている。司馬炎は、中華統一を成し遂げた皇帝というと、字面としては立派に見える。だが実態としては、司馬懿とその息子である司馬師司馬昭が天下統一のお膳立てを済ませた状態で、父・司馬昭を継いで最後の仕上げの部分を担った形であり、しかも天下統一後は緊張感をなくしたのか酒色に耽ったり、名君とは程遠いし、後世で人気がある人物でもない。だから、そんな人物をチョイスして人物伝として出版していることを、不思議に感じた。

 しかし、この『西晉の武帝 司馬炎』というタイトルは実際の中身とはかなり違っている。本書は晋王朝の実質的な創始者とも称される司馬懿の立身に始まって、司馬炎の死後、八王の乱を経て最終的に永嘉の乱西晋が滅ぶまでの時代を扱っており、むしろ「西晋史」と言うべき内容になっている。魏晋南北朝時代という意味で、後漢末~北魏あたりまでの時代を扱う本であれば、一般書もそれなりに出版されているし、西晋の直前である三国時代ともなればいくらでも書籍はあるが、こと西晋という時代にフォーカスした一般書籍は、管見の限りほかに見当たらず、この点だけでもこの本の独自性があると思う。

 西晋というのは、恐らくさほど人気がある時代ではない。八王の乱にしても、英雄というべき人物はおらず、延々と身内での内紛が続き、そうしている間に長城以南に内徒している異民族が反旗を翻して勢力を伸長し、八王の乱が終わったときには西晋は既に瀕死の状態であった。このように政治・軍事的にはなんともしまらず、一王朝として見ると、期間も短いし、魅力的と言い難い。

 だが、視野を少し広げて中国史全体の流れからいうと、秦漢と続いてきた漢人による古代帝国の時代から、隋唐の異民族王朝に至る過渡期である魏晋南北朝時代のなかで、異民族による華北支配は西晋の滅亡をもって始まるのであり、ここはひとつの時代の画期といえる。それに、魏~西晋期に育まれた貴族社会は、その後、東晋に引き継がれて南朝の在り方を特色づけ、そうした要素は南北統一を為した隋唐時代にまで影響を与えることになる。

 さらに、西晋が存立していた4世紀は、ユーラシア大陸全体を俯瞰すると、気候の寒冷化が北方の遊牧民族の移動・南下をうながし、所謂「民族の大移動」が起こる中で、世界の東西で古代帝国が「蛮族」の侵入によって滅亡し、遊牧民族が新たな政治的支配者として立ち現れてくる時代だ。中国で西晋の滅亡によって漢人帝国の時代が終わる一方、ヨーロッパでも4~5世紀にかけて、ローマ帝国ゲルマン人の侵入によって崩壊していくことになる。こうしてみると西晋も興味深く、面白い時代なのである。

 

「私権」と「公権」から見る魏晋王朝と社会

 

 本書は単に歴史上の事実を羅列するだけでなく、西晋時代の社会の特徴を「私権」と「公権」をキーワードに分析し、そのあり様が、八王の乱が延々と続いてしまった背景でもあると分析する。前提として、魏の前王朝である後漢は、中央の外戚や宦官が、地方の豪族と結びついて権力を私物化し、民衆からの収奪を強めたことで、不満が爆発して黄巾の乱が起き、滅亡に至った。その後漢に替わる魏や晋には、そうした為政者の私権化を克服し、まっとうな公権を確立することが求められていたといえる。

 乱れた世を正すために求められた公権について、筆者は二つの側面があることを指摘する。一つは、威信によって世を治め、秩序をもたらす峻厳な法家的な面、もうひとつは輿論を重んじ、徳をもって世を治める、儒家的な面だ。前者は皇帝の立場と、後者は貴族層(清流派士大夫)の立場と重なる。魏と晋を比較したとき、魏は前者の権威を、晋は後者の輿論を重視する傾向にある。魏は、混沌とした乱世を生き抜いた奸雄・曹操が事実上築いた王朝であることから、強い権威による峻厳な統治に傾斜するのは自然な成り行きだったが、晋は儒教的価値観を重んずる清流派士大夫層の立場から魏を批判し、帝位禅譲劇を正当化した。例えば魏の二代皇帝、曹叡魏王朝の権威づけを狙って行った、宮殿の造営のような施策を、皇帝の私欲から発するもので、人民を疲弊させるとして反発する輿論の支持を、司馬氏は受けたのだった。司馬氏は河内の名望家の家系だったが、ここでいう「名望家」というのは、儒教的教養をもち、また郷里における声望の高いエリート、という意味合いであり、司馬氏はもともと上記の公権の二つの側面のうち、後者の系譜に属する存在であった。

 だからこそ、司馬師司馬昭は反司馬氏の反乱(毌丘倹・文欽の乱や諸葛誕の乱)を鎮めた際に、首謀者以外は罰さないなど、寛容な振る舞いをアピールして支持を集めようとしたし、初代皇帝司馬炎もまた、寛容な儒教的徳治を志向した。

 しかしながら、当の司馬氏自体が、特に呉を征伐したのちの緊張感の喪失のなかで私権化をしていく。司馬炎自身が、輿論の反対を押し切って、声望高い弟・司馬攸を左遷した事件などはその象徴である。司馬炎死後に、八王の乱で争った外戚や宗室の王たちもまた、誰かが権力を奪取しては私権化し、他の王が公権回復を大義名分として立ち、新たな抗争がはじまるといった流れを何度となく繰り返すことになる。

 こうした、本来公権を確立すべき司馬氏自身が私権化に向かってしまった背景には、より大きな中国社会の風潮の変化があった。漢代の社会は、儒教的上下関係によって秩序だてられた郷村共同体社会をベースに、国家が成り立っていたが、生産力の向上によって階層分化が進み、豪族と貧農の関係が生じるなかで、郷村共同体は解体されていった。ここに天災や戦乱が加わることで、貧農は流民と化す。こうした流民や、長城以南に移住した異民族は、コミュニティの所属を離れて、孤立した個人としての存在となる。こうして共同体から疎外された個人が、その不安から宗教を求めたことで、この時期の中国では道教や仏教の信仰が広まる。また同時に、個人の覚醒が、人間性が豊かに表れた芸術を生み出すようになり貴族社会を彩った。しかし、個人の欲望もまた、儒教的な束縛を離れて露骨にあらわれるようにもなる。たとえば、八王のうち、司馬倫や司馬顒といった人物は、腹心となる部下(孫秀や張方)にそそのかされて乱の拡大に一役買ったが、そうした部下たちは、貴族社会において、通常高い階位に登れない寒門出身で、私的に結びついた宗族諸王を権力の座に押し上げることで、自らの立身出世を果たそうとしたのであった。

 このように、私欲が噴出する時代にあって、本来公権として民を守るべき立場にありながら、自ら私権化して逆に内乱で民を苦しめた西晋王朝が民衆に否定され、永嘉の乱によって滅亡したのは、当然の成り行きであった。

 晋は、魏を民を法家的な苛酷なやり方で統治する王朝と批判し、輿論を重んじる儒教的国家像を実現しようとしたが、この輿論を担うところの貴族・士大夫層自体が、漢代の頃とは大きく変質していた。先述のように後漢のころより階層分化によって引き裂かれつつあった郷村共同体は、黄巾の乱以降の戦乱のなかでさらに解体が進んでいたため、同時に郷村共同体において仰ぎ見られ、またその守護者たらんとする清流派士大夫層、という存在も既に過去のものとなっていた。魏で定められた九品中正は、本来は漢代のように郷村の声望によって人物を登用することを意図した制度であったが、そもそもの郷村社会自体の消失によって、地方からの推薦は機能せず、逆に中央側の意向が人選に強く反映される運用になったことで、有力家門の者が登用されるようになり、貴族社会を形成することになる。そのため魏晋時代の貴族は漢代の士大夫とは異なり郷村とは遊離した存在で、衒学的な議論に耽ったり、奢侈によって貴族社会の内輪での声望を競うようになる。

 短命に終わった西晋にも、占田・課田制や泰始律令など、コンセプトとしては後の隋唐時代にも通ずる政治的所産はあった。しかし、司馬氏自身をも含む為政者層の変質によって、結局西晋後漢以来の課題であった、政治の私権化を克服することができずに滅亡したのである。